妙観講について

妙観講の名前の由来

 「妙観」とは、第六十六世日達上人の阿闍梨(あじゃり)号です。「妙観」こと日達上人の御名を、講中の名称および機関紙名として奉戴したのは、妙観講にとって、日達上人は永遠に忘れてはならぬ大恩人であられるからであります。

妙観講とは

妙観講は、昭和55年8月、第六十七世御法主日顕上人猊下の御認可によって結成された、総本山塔中理境坊に所属する法華講中です(法華講とは、宗祖日蓮大聖人の御命名による、 日蓮正宗信徒の総称であり、 その活動単位として、所属寺院ごとに結成された本宗正規の信徒団体を講中といいます)。    
  〝妙観講〟の名称は、第六十六世日達上人の阿闍梨号〝妙観〟を奉戴したものですが、それは、この講中の基礎が日達上人の格別の御慈悲によって作られた、ということによっています。  
  すなわち妙観講は、日達上人・日顕上人両猊下の御もとに成った講中であり、かつて日達上人より賜わっている 「たとえ、次の法主の代、また次の法主の代となっても、常に総本山を根本として信心を貫き通すことが、正しい日蓮正宗の信心の在り方である」 との御指南を体し、正しい信心と御奉公を貫いていくことを旨としているのであります。

組織について

日蓮大聖人は、 「仏になる道は師に仕うるにはすぎず」 と仰せられ、甚深の仏法を正しく修行していくためには、仏法を会得されている正師を仰ぎ、教えを請わなくてはならぬことを示されています(むろん、末法における正師とは、御本仏日蓮大聖人に他なりません)。  
  しかしながら、次第に正法に帰依する人々が増えてまいりますと、とても一人の正師から、すべての人々が御指導いただくことは不可能となってまいります。
  そこで、大聖人は、当時の御弟子達の中から、大聖人が直接に折伏・教化してきた6人を選び、本弟子と定められました(これを六老僧制といいます)。 そして、その六人が折伏・教化してきた弟子・信者は、6人それぞれの弟子・信者である、と決定されたのです。 これにより、一般の弟子・信者は、大聖人を根本の師(本師)と仰ぎ、実際の日常の信仰においては、大聖人の定められた本弟子の御僧侶を直接の師(小師)として信仰に励む、という形ができました。  
  この、師・弟子の筋目によって成り立つ信仰形態が、大聖人の定められた仏法の組織でありまして、それは、また七百年後の今日まで、そのまま日蓮正宗に継承されてきています。
  すなわち、本師としては、大聖人御入滅後の御代管たる御法主上人猊下がおわし、また、小師としては、御法主上人猊下のおめがねに適った御僧侶が、各寺院に御住職として派遣され、信徒に正法を説かれる・・、まさに本師―小師―信徒という、大聖人の定められたとおりの師・弟子の筋目を守っているのが、日蓮正宗宗門の組織なのであります。

さて、大聖人は、こうした基本形態のうえで、さらに信徒の中からも、「法門ふれ頭」と称する人々を定めておられました。 
 この人々は、本師・大聖人からの御指南を、小師たる御僧侶の指導によって正しく学び、それを他の信徒方に伝達指導していたといいます(大聖人御在世でいえば、富木常忍、四条金吾といった人々が、この任に当たっておりました)。このことは要するに、増加していく信徒をくまなく指導し、正しい強盛な信心へと育成するためには、とうてい一人の御僧侶ですべてを見きることはできませんので、信徒の中から信・行・学において勝れた先達を選び、御僧侶との和合協力のもとに、数多の信徒の指導・育成にあたらせたものといえましょう。
  また、家業をもちながら仏道修行に励むという、同じ在家信徒の立場の上から、いかに小師たる御僧侶に仕え、いかに御供養を申し上げ、いかに外護の誠を尽くしていくか、それらを身をもって後輩の人々に指し示していくことは、きわめて有効な信徒育成の在り方でもあったのであります。  

しかして、「法門ふれ頭」を中心に、その法縁の信徒達が集い、小師たる御僧侶を仰いで共々に信心していく・・その群像を、大聖人は「法華講衆」と名付けられました。  
 この形態を今日に受け継いだのが、法華講中の組織です。講中では、御住職を小師(指導教師と申し上げます)として戴き、 「法門ふれ頭」にあたる講頭ほか幹部役員を中心に、日夜、信行学の増進と広宣流布をめざし、仏道修行に邁進しているのです。 以上に述べてきましたとおり、本師―小師―講中という組織は、七百年来の正しい信仰の筋道でありまして、これを踏んでいくところにのみ、大聖人以来の正しい信仰ができるのであります。  

さて、このような仏法の組織は、どこまでも師・弟子の関係(教化系統)を軸として形成されており、単なる人為的な都合によるものではありません。  
  我が妙観講の場合についていえば、妙観講は、理境坊に所属し、理境坊御住職を指導教師と仰ぐ講中です。 
  それ故、妙観講で折伏教化を受け入信した講員は、北海道在住であれ、沖縄在住であれ、皆、理境坊の信徒として、理境坊御住職を小師と定め、信仰に励んでいるのであります。
  むろん、各地在住の講員が、地元の正宗寺院に参詣し、御供養させていただくことも日常の修行において至極当然のことでありますが、師・弟子の筋目(今日的にいえば指導系統といえましょうか)は、どこまでも理境坊の信徒、妙観講の講員であるということを、弁えなくてはなりません。 妙観講々員は、指導教師御住職と、そのもとにある講中の指導に付き随って、自らの自行化他の修行に励み、理境坊そして総本山を外護申し上げることを旨として、その上に各地寺院への参詣・御供養をいたすべきであります。   なお、各地在住の講員で、御授戒・冠婚葬祭等の願いがあるときは、理境坊に願い出て、必要に応じては理境坊御住職から各寺院に依頼申し上げ、すべて滞りなく執行していただいております。こうした手続きの在り方も、また師・弟子の筋目を守った振る舞いといえましょう。  

かくして、妙観講は、現在、全国ほとんどの都道府県に講員を擁し、活動を展開しているのであります。  
  また、妙観講の講員がもっとも集中する東京都には本部拠点を置き、比較的、講員の多い地域(埼玉、千葉、三重、長野、京都、名古屋e・t・c)には布教所を開設し、もって講中の機能を円滑化、全国講員が一丸となって信行学に邁進できる体制を築いているのであります。

妙観講の歴史と使命

妙観講の沿革は、昭和47年の正本堂建立と前後して、大草講頭が、創価学会内に蔓延していた〝池田会長仏陀論〟に疑念を抱き、一人起(た)ったことに始まります。
  ただし、大草講頭は、単なる学会批判に走るのではなくして、まず、真実の仏法を教示してくださる正師を求め、祈りに祈り、学びに学びました。その結果、昭和48年春のある日、繙いた『日蓮正宗聖典』に、
  「代々の上人悉く日蓮なりと申す意なり」 の御文を見出だし、真実の本師が、富士大石寺にまします御法主上人猊下であることを知ったのです。この根本の師に対する信心を定め、さらに、夜を日に次ぐ激しさで、日寛上人・日淳上人・日達上人の御教示、大聖人の御書等を学びました。この時、すでに同志が2名から5名と、次第に集いはじめておりました。
  こうした研鑚を通じ、大草講頭は、創価学会が日蓮正宗と異質な宗教になりつつあること、その元凶は池田大作氏にあること、そして、このまま事態が進めば、将来、正法が完全に曲げられ、それに呼応して世の中も乱れることを、察知しました。
  「気づいた者が起たねばならない。将来、訪れることが予想される正法の危機に備え、大御本尊と御法主上人猊下をお護りできる人材群を、作り、育てるのだ!」この決意を、集った同志達に訴え、将来を見据えての闘いがスタートしたのです。  

しかして、同年4月、たまたま知遇した方の縁により、都内正宗寺院に所属する法華講員となり、折伏・育成を急進展せしめました。  
 昭和49年末には30世帯、50年末には43世帯、51年末には114世帯、そして52年末には240世帯・・。 この時、いよいよ学会の教義逸脱・宗門支配路線が表面化、危惧していた事態が眼前に顕われはじめました。
  「大事の御奉公に遅れてはならない。万一の時には、一身一命を賭して、大御本尊と猊座をお護りしよう!」 その一念が、ついに師のもとに達したか、我が同志達の活動状況等を、他寺院所属の信徒からお聞き及びになった六十六世日達上人は、52年12月末、大草講頭を大石寺出張所に召してお目通りを許され、その場で「私のそばに来なさい」と、総本山塔中理境坊所属の御慈命を賜わったのであります。  

かくて、日達上人の御もと、理境坊御住職・小川只道御尊師を指導教師に戴き、「仮称・法華講理境坊東京支部」として、後の妙観講の基礎となる組織が築かれました。 小川御尊師は 「私は、皆さんを、日達上人から御預かりした御信徒として、守り育てていくつもりである」と仰せられ、ここに盤石な僧俗和合の体制が成ったのです。
  翌53年4月には教学理論誌『暁鐘』を創刊、当時の学会の教義逸脱を誌上で徹底破折しました。 昭和54年7月、学会問題のいちおうの収束をみて、日達上人が御遷化、六十七世御法主日顕上人猊下が御登座あそばされました。 この頃より、正信会の不穏な動きが現われはじめ、新たな仏敵となるに至りました

昭和55年8月、日顕上人猊下より「妙観講」の名称を御認可いただき、仮称・法華講理境坊東京支部から改称した我が妙観講は、眼前の仏敵である正信会の邪義を真っ向から破折、教義上からのまともな反論を不能にせしめたのであります。
  しかしながら、学会の巧妙かつ不審な動向もあって、いまだ真の御奉公の時は将来にある、と感じた大草講頭は、 いよいよ護法の大講中へと陣容を整えるべく、破邪顕正の折伏と厳格な信仰の養育に力を注ぎました。これを暖かく見守り、教導くださる指導教師 ・小川御尊師との僧俗和合のもとに、 全講員の信心は次第に深化され、 また熾烈なまでの折伏が展開されました。  
  その結果、妙観講は、点と点を結んで線に、そして徐々に面へと、拡大成長を続け、ほぼ全国に講員の分布する状態となったのであります。  

昭和63年には、かつて本宗を破門された極悪集団・顕正会(元「妙信講」)と対決。 卑劣な悪口中傷や集団暴行を受けつつも、講中の信心を結集してこれを打ち破りました。 これにより、大量脱会者を出した顕正会では、「妙観講は痴犬だっ。汚らわしいから話をしてもいけない」などと、恥知らずな指示を会内に流し、尻尾を巻いて逃避したのであります。  

そして平成2年・・。しばらく本性を隠していた池田創価学会は、ついにその仮面を脱ぎ捨て、再び日蓮正宗と対立する路線を打ち出しました。  
  同時期、妙観講に対し大がかりな盗聴や謀略工作が行なわれたことを通じ、いち早く学会の逸脱再燃を察知した大草講頭は、7月1日、妙観講本部幹部会において、 「真の御奉公をさせていただくべき時が、間近に迫ってきていることを痛感する。妙観講は、その全存在を賭けて、総本山のために働かせていただく。この時のためにこそ、これまでの全てがあった。今こそ、出陣の時である」 と宣言。まず『暁鐘』誌上に、学会・正信会・顕正会という、近年の一連の不祥事の本質を体系的に解説・破折した〝富士の清流〟を連載し、さらに同年末から平成3年始めにかけての学会の動向を慎重に見極めた上で、ついに妙観講の総力を挙げて起ったのです。

以来、仏敵と化した池田創価学会との激しい法戦は止むことなく、妙観講は、一丸となって正法厳護・破邪顕正の闘いを続けています。有り難くも御法主日顕上人猊下より賜わった、「妙観講は、まさに、宗門一大事の時に法を護るべく現われた講中である」 「吉き教導者たる指導教師と、吉き指導者たる講頭のもと、さらなる精進を」 との御教示を胸に・・。  

以上、妙観講の歴史について述べてきましたが、妙観講の底流をなしているのは、あくまでも〝護法〟と〝広布〟の使命感であり、戒壇の大御本尊と血脈の尊厳を護持する信心なのであります。