日蓮大聖人の御一生

一、御誕生

 今から約七百七十年前にあたる貞応元年(一ニニ二年)ニ月十六日、日蓮大聖人は、安房の国(現在の 千葉県)長狭郡東条郷・小湊の漁村にお生まれになり、御幼名は善日麿と申し上げました。 御父は三国の太夫重忠、御母は梅菊といい、漁夫として貧しい暮らしをしておりました。

 「日蓮は、日本国 東夷 東条・安房の国、海辺の旃陀羅が子なり。」(新編四八ニ) 「旃陀羅」とは、古代インドで最下層階級とされた、屠殺を職業とする者のことですが、まさに日蓮大聖人 は、名もなき賎しい漁夫の子として御誕生あそばされました。 そして、この一介の凡夫としての御姿のまま、未法御本仏の御振舞いをされるわけでありますが、このこと は要するに、いかなる身分の民衆であろうと、その身そのままで等しく成仏できる、ということを示された大 慈悲といえましょう。

二、出家・修行

 天福元年(一二三三年)、十二歳の御時、善日麿は、小湊からほど近い清澄山にある古刹・清澄寺に登 り、道善房を師として仏門に入られ、四年後の嘉禎三年(一ニ三七年)、十六歳の御時に、正式に出家剃 髪されて、名を是聖房蓮長と改められました。当時の仏教界は、文字どおり白法隠没の様相を示し、同じ釈尊の教えを依り処としながらも、念仏、禅、 真言、律、天台などの宗派が乱立して、いったい真実の仏教が何処にあるのか、見極めのつかない状態 でした。

 このような乱立した仏教界の中にあって、蓮長師は、仏の真の教えはただ一つのはずであると考えられ、 その真実の宗教を探求し、一切の民衆を迷いと苦悩から救済したい、との大願を抱いておられたのです。 そして、この御目的を遂げんがために、蓮長師は、出家された翌々年、ひとり修学の旅にたたれました。 鎌倉ヘ、比叡山ヘ、蓮長師は、広く各宗の法義を研学され、ついに仏法の極理に通達されたのです。

三、立宗宣言

 建長五年(一二五三年)三月二十八日、修学の旅から戻られた蓮長師は、清澄山・嵩ヶ森の頂に立って、初めて「南無妙法蓮華経」の題目を力強く唱え出だされ、ひとり大自然に向かって立宗を宣言されました。 そして、自らの御名を「日蓮」と改められたのです。 山を下られた日蓮大聖人は、清澄寺の道善房の持仏堂において、兄弟子である義浄房・浄顕房や浄円房、御両親等の近しい人々を前に、初転法輪(初めての御説法)をなさいました。

 この御説法で、日蓮大聖人は、経文上の証拠を引かれて、当時流行していた念仏や禅宗等が釈尊の真意に背く邪宗教であることを明らかにされたのであります。 御年三十二歳のことでした。 この御説法は、当時の宗教界およびそれに癒着する権力者を真っ向から敵に回すものであったため、我が子の身を案じた御両親は、手をすり合わせて、大聖人に考えを改めるよう、懇願したのでした。 しかし大聖人は、そのような御両親を諄々と折伏教化なされ、ついに最初の信徒となされたのです。 この初転法輪より一ヶ月後の四月二十八日、大聖人は、清澄寺の諸仏坊の持仏堂南面の説法の座に着かれ、集まった大衆を前に、御自ら「法華経の行者日蓮」と名乗られて、御説法を始めました。

 しかし、この、当時の宗教界に対する一大鉄槌ともいうべき御説法は、聴衆に大いなる衝撃を与え、たちまち日蓮大聖人は、念仏の強信者である地頭の東条景信から命を狙われる身となったのです。 この時、日蓮大聖人は、浄顕房と義浄房の手引きによって危うく難を逃れましたが、この襲いくる大難も、かねてよりの御覚悟であり、その民衆救済・広宣流布への広大な慈悲と決意は、揺らぐことすらありませんでした。 それどころか、大聖人は、日本の国を救うためには政治の中心地・鎌倉へ出て、さらなる弘教を推進すべきであると考えられ、鎌倉へと出発されたのです。

四、立正安国論

 日蓮大聖人は、鎌倉につくと、名越の松葉ケ谷に草庵を結ばれ、ここから鎌倉の街辻に出られては、諸宗の邪義を破して弘教を開始されました。 当時の世相は、天変地異が相続き、地震、疫病、飢饉等の災害が激烈をきわめ、民衆の苦悩は筆舌に 尽くしがたいものでした。

 日蓮大聖人は、こうした様相を御覧になり、正嘉元年(一二五七年)八月の大地震などをきっかけに、立正安国論を著述あそばざれたのです。 その大意は、「一切の災難の根本原因は、時の主権者はじめ万民が、正しい仏法に背いて邪宗邪義を信仰するところにある。もし、このまま、邪宗教を廃して正法に帰依しないならば、自界叛逆(内乱)、他国侵逼 (他国からの侵略)の二難が起きるであろう」との、国家に対する一大警告でした。

「但偏に、国の為、法の為、人の為にして、身の為に之を申さず。」(新編三六九) まさしく、この立正安国論こそ、民衆の悲痛なまでの叫びを聞いて、決然と立ち上がられた日蓮大聖人の、 至誠の書だったのです。 文応元年(一二六〇年)七月十六日、立正安国論は、宿屋左衛門人道を通し、時の実権者・北条時頼 (最明寺入道)に提出されました。時に聖寿三十九歳、これが大聖人の御一代における第一回の国主諫暁 (国主を諫め、さとすこと)でした。

五、法難

 この重大な国諫の書に対し、邪宗を信奉する時の為政者達は、数々の追害をもって応えました。 まず、安国論提出の約一ケ月後、文応元年八月二十七日の夜、暮府を後ろだてとした念仏の僧および信徒が徒党を組み、松葉ケ谷の草庵を襲撃したのです。しかし、日蓮大聖人は、下総の信者・富木常忍のもと に身を寄せられ、この難をのがれました。この事件を松葉ケ谷の法難といいます。

 松葉ケ谷法難をのがれられた大聖人は、翌・弘長元年(一二六一年)に鎌倉に戻られ、以前にも増して、 いっそう猛烈な折伏弘教を展開されました。念仏者の驚きはたいへんなものでしたが、もはや正々堂々たる法論を行なったところで勝てる見込みすらなく、また草庵の襲撃にも失敗した彼等は、ひそかに大聖人を処罰するよう幕府に訴えたのです。

 執権・北条長時は、父の重時と共に、日蓮大聖人に憎悪・怨嫉の念を持っていたため、ただちに念仏者の訴えをとりあげ、弘長元年五月十二日、何の失もない大聖人を伊豆の伊東へ流罪にしてしまいました。これ を伊豆流罪といい、後の佐渡流罪とともに二度の王難(国主からの難)として多くの御書に明記されていま す。 大聖人の伊豆流罪中、鎌倉においては、大聖人迫害の張本人である北条長時と重時が、それぞれ長時は 病床に倒れ、重時は狂死して、仏法に違背した謗法の報いは厳然と現われたのであります。 この仏罰をまのあたりにしてか、弘長三年二月、一年九ケ月ぶりに大聖人の流罪は赦免されました。

 かくして赦免となった大聖人は、十二年間離れていた故郷の安房の国に帰られ、安房方面の教化にあたら れるのですが、そこでは、大聖人御立宗の頃より憎悪の念を持つ念仏の信者・地頭の東条景信が、虎視眈々と大聖人迫害の機会をねらっていたのです。

 文永元年(一二六四年)十一月十一日、大聖人が、十人ほどの御供を連れ、信者である工藤吉隆の屋敷 へ向かわれる途中、小松原において、突如、東条景信が数百人の兵を率いて襲撃してきました。激戦の末、御弟子の鏡忍房、工藤吉隆は討ち死にし、日蓮大聖人御自身も額に傷を負われました。これを小松原の法難といいます。 仏法上の大罪である五逆罪のひとつに、「仏身より血を出だす」という罪がありますが、このとき大聖人の御尊体を傷つけた東条景信は、その後にわかに狂死したそうです。

六、十一通御書

 日蓮大聖人が再び鎌倉に戻られた文永五年、蒙古国からの国書が鎌倉に届き、八年前に立正安国論で警告された他国侵逼難が、ついに現実の問題となって現われました。 大聖人は、同年十月十一日、当時の幕府および仏教界の代表十一人に書状を送り、公場対決によって法の正邪を決し、すみやかに邪宗邪義を捨てて正法に帰伏するよう迫られました。 この十一通御書の中に諸宗の邪義を破して説かれたのが、念仏無間、禅天魔、真言亡国、律国賊という、有名な四箇の格言であります。 しかしながら、幕府および七大寺の僧は、十一通御書にあわてふためき、その重大な警告を無視したのみか、陰では大聖人迫害の策略を練りはじめたのです。

七、発迹顕本

 文永八年(一二七一年)、全国的な大旱魃が続き、幕府は律宗の僧である極楽寺良観に祈雨を命じました。 日蓮大聖人は、良観のもとに便りをつかわして、祈雨の勝負で法の正邪を決することを決められましたが、 結局、これは良観の大惨敗に帰したのでした。 ところが、祈雨に破れた良観は、卑劣にも諸宗の僧と語らって策略をなし、幕府を動かして大聖人の御生命を奪おうとしたのです。

 大聖人は奉行所に呼び出され、取り調べを受けましたが、逆に、自分が是か、彼等諸宗が是か、幕府の殿上にて公場対決をもって正邪を決すべしと強く、主張され、かえって裁く者を諫言されたのでした。 逆上した内管領・平左衛門尉頼綱は、九月十二日、数百人の兵と共に、松葉ケ谷の草庵を襲撃するという 暴挙に出ました。これに対して日蓮大聖人は厳然として「平左衛門尉の狂気の沙汰をみよ、日蓮を失うことは日本国の柱を倒すことである」と諫められ、平左衛門尉をはじめ居並ぶ兵士達は顔色を失ったのであります。

 こうして大聖人は、あたかも重罪人のように捕えられ何の裁判も行なわれないまま、十二日の夜になって竜の口の刑場へと護送されました。何の罪もなく国の法では裁くことのできない大聖人を、密かに処刑してしまおうとの魂胆だったのです。 処刑の時が迫り、頸の座にすえられた大聖人に太刀取リの白刃が振り上げられた瞬間、突如として、江の島方向から月のような発光体が西北の方角へと光り渡りました。

 首を斬ろうとしていた太刀取りは目がくらんで倒れ、兵達は怖れをいだいて、ある者は落馬し、ある者は馬で逃け去ってしまって、ついに大聖人の御生命を奪うことはできませんでした。これを竜の口の法難といいますが、大聖人の御一代においては重大なる意義をもつ事件であります。

 すなわち、この竜の口法難に至って、日蓮大聖人は、これまでの凡夫として活動されてきた身をはらわれ、 御自らが法華経に予証されたる上行菩薩であることを、否々、さらに深くいうならば未法に出現あそばされた御本仏であることを御示しになったのです。これを仏法上では発迹顕本(仮の姿をはらって真実の仏の姿を顕わす)といいます。

 この発迹顕本とは、仏でない者がはじめて仏になる、ということではなく、いわば最初からの仏が、それを民衆に証明なさることであり、証明された後は真の仏の御振舞いをなさるのです。 ゆえに、この竜の口法難以後、日蓮大聖人は御本仏としての御立場の上から、いよいよ本格的な活動を始められるのであります。

八、佐渡流罪

 竜の口での斬首をまぬがれた日蓮大聖人は、一時、相模の依智へ送られました。 が、ここに滞在されている間に、鎌倉では念仏者達による放火・殺人等が相続き、その罪が悉く大聖人の御一門に着せられてしまったのです。 このため幕府は、大聖人の弟子檀那を迫害し、同時に大聖人を急いで処分することにしました。 結局、日蓮大聖人は佐渡流罪に処されることに決まり、文永八年十月十日に依智を出発、二十八日に佐渡に着きました。

 当時は世界的にも厳しい気候が続いており、ましてや冬に向かう北海の佐渡では、その寒さも想像を絶するものであったと思われます。 その厳寒の地・佐渡における大聖人の住居は、死人を捨てる場所になっていた塚原という所にある三昧堂 で、屋根は板間があわず、壁は落ちかかった、小さなあばら家でした。そのうえ、食べる物も、着る物も思うに任せない、常人なら確実に命を失うような状況だったのであリます。 しかし、いかなる厳しい条件も、御本仏日蓮大聖人の金剛不壊の御境涯を崩すことはできませんでした。 そればかりか、いよいよ発迹顕本によって御本仏としての御姿を顕わされた大聖人は、この塚原三昧堂にお いて、人本尊開顕の書といわれる開目抄を著述なされたのです。

 翌,文永九年二月、かねてより大聖人の予言されていた自界叛逆難が、現実となって現われました。それは、執権・北条時宗と兄の時輔が政権をめぐって争い、時輔が殺害ざれた事件ですが、この自界叛逆難の適中をみて、恐怖にかられた幕府は、急遽、日蓮大聖人を塚原三味堂から他の場所に移すことに決めまし た。 こうして大聖人は一の谷という地に移られ、翌・文永十年には、法本尊開顕の書といわれる観心本尊抄を著述なさっています。

 文永十一年になると、蒙古の使者がたびたび訪れて幕府をおびやかし、そのうえ、太陽や明星がニつ現われる等の不思議な現象が連続してきました。これを見た北条時宗は、かつての大聖人の予言を思い出し、 鎌倉に大聖人を戻そうと決意したのです。 しかして大聖人は、文永十一年二月十四日付で、二年数ケ月間の佐渡流罪を赦免となりました。

九、出世の御本懐

 鎌倉に戻られた日連大聖人は、出頭命令を受け、再び平左衛門尉と対面されました。 平左衛門尉は、以前とはうって変わって、礼儀をつくして大聖人を迎え、蒙古襲来等に関する質問をしてきま した。 これに対して大聖人は、「蒙古が今年中に攻めてくることは確実である。一刻も早く邪宗を捨てて、正法に帰伏すべきである」と諄々と読かれ、折伏していかれました。 ところが幕府は、あくまでも邪宗邪義に固執し、邪宗である念仏・真言等と共に、日蓮大聖人に国家安泰の祈祷をさせようと考えたのです。

 この、あくまでも正法に目覚めない幕府の態度に対し、大聖人は、一往は「三度諫めて用いずば国を去って山林に交わる」との古事にならい、再往は御弟子の育成と出世の御本懐を遂げんがために、文永十一年五月十二日、鎌倉を去って、身延山に入山されたのであります。

 身延に入山された日蓮大聖人は、令法久住のために御弟子方々の育成にあたられ、同時に、各地に門下の御弟子を配して折伏弘通を盛んにされていましたが、これには多くの迫害がありました。 なかでも、弘安二年(一二七九年)に起きた富士熱原の法難は最大級のもので、ついに信者二十名が捕えられ、後に神四郎・弥五郎・弥六郎の三人が斬罪に処されています。

 日蓮大聖人は、この法難における民衆の不自惜身命の信心に時を感ぜられ、弘安二年十月十二日、出世の御本懐である本門戒壇の大御本尊を建立あそばされたのであります。

十、御入滅

 弘安四年頃になりますと、数々の大法難にあいながらも、約三十年にわたって死身弘法の闘いを続けてこられたことにより、日蓮大聖人の御身体は次第に衰弱されてきました。

 弘安五年九月、大聖人は、御弟子方の願いによって、常陸の温泉に療養するため身廷を出られることにさ れました。が、すでに一切の願業も終えられ、御入滅の近いことを予知せられていた大聖人は、身延下山 に先立ち、とくに日興上人をお召しになって、御自身の仏法の一切を授ける旨を認められた身延相承書(日蓮一期弘法付嘱書)を与えられたのです。 こうして大聖人は、九月八日、御弟子達に護られて身廷をたち、九月十八日、武州池上の信者・池上宗仲の館に立ち寄られました。 常陸への途中ニ、三日の御休息ということであったのかもしれませんが、大聖人の御身体の衰弱はにわかに進んでいきました。

 十月十三日の早朝、身延相承書と併せてニ箇の相承と呼ばれる池上相承書(身延山付嘱書)が日興上人に与えられ、大聖人は、日興上人を後継者として固く定められました。 かくして同日辰の刻(午前八時)、日蓮大聖人は安祥として滅不滅の相を現ぜられたのであります。聖寿六十一歳、この時、おりしも大地が震動し、庭の桜が時節でないのに花開いたと伝えられています。