法華講員 VS 日蓮宗住職<序章>

メール3・日蓮宗住職からの抗弁
(平成29年9月19日 受信)

 
  前ご返答ありがとうございます。
長くなるので、一日一度ではありますが、二回にわけてお送りします。ご了承ください。どうぞごゆっくり真実に向き合われてください。
 クソ坊主!と罵詈雑言を浴びせて逃亡する過去の法論相手と違いますね。敬意を表します。まったくお答えになっていないので、反論ということになるのかどうかも分かりませんが。
  確認なのですが、日蓮正宗は、唯受一人血脈相承として、連綿と大石寺住職にだけ相承される最たるものが戒壇本尊なのですよね?
 つまり、大石寺住職は、日興上人依頼、連綿と戒壇本尊を相承され、秘蔵厳護してきた。大石寺のアナウンスはそれでいいのですよね?

では、

一、

「日因私に云く此の丁聞書誰人之を記するや未だ其の人を見聞せざるなり、然るに南条日住の聞記百二十一個有り之に准して之を思うに恐くは是南条日住の聞書なるべし或は亦日有上人の御直記なるか。」
ではじまるわけで、誰が書いたかも日因さん自身が分かっていないわけですから、「私の曰」と書かざるを得ないのでしょう。 私も日因さんのものだと思ってますよ、当然。

その日因さんは、その相承者でありながら、戒壇本尊の日付を間違えて書いたということですね?
これは、大石寺の公式の見解ですか?初耳なので教えてください。

 そして、その間違えた日付が、「十月十三日」、つまり宗祖の御命日と間違えたと?
貴殿はそれで納得しているわけですね?そしてそれが、大石寺の公式見解なのですね?

 日因さんは、戒壇本尊を直に見ていた唯受一人相承者なのではないのですか?その方が、「宗祖の命日」と、「戒壇本尊造立日」を間違えたと、そういうことでいいのですね?

 もう一度聞きますが、それが大石寺の公式見解なのですね?

 日因が相承されたというのが一七四〇年、当該書執筆が一七五七年。江戸中期。
それが単なる「日因上人の臨時の御失錯」とは、これが大石寺公式見解だとすると、血脈相承の真偽が問われますよ、当然ですが。
 しかも、「臨時の」の意味が分かりません。

 では、この戒壇本尊が出てきた最古の書物はなんですか?宗祖も日興上人も、上代では誰もどこにも残されていない。では、最古は誰ですか?
私の知り限り、西暦一五〇〇年以降ですよ。宗祖滅三百年というところでしょうか。
こんなものを宗祖作と主張し、人を勧誘し、他を批判する無責任を私は問いたいです。

 いつも、この指摘にもだんまりばかりの法華講員とは違い、返答頂いたことに敬意を表しますが、血脈相承者の「ミス」だと言われたのは貴殿が初めてです。


 もう一度聞きますが、これは大石寺の公式見解なのですね?
そして、こんな重大ミスを犯す人が間に介している血脈相承とやらを信じきって、人を勧誘し、他を批判するわけですか?
あまりにも無責任だと思いますが。

二、

あまり私見で適当なことを言わない方がいいと思いますよ。

まず、
>もとより「二千二百二十余年」と「二千二百三十余年」の御本尊を対比して「二千二百三十余年」の御本尊を簡ぶ、という文意ではありません。

 そんなことを言っているのではありません。
誰が対比などしていると解釈しているのでしょうか?
また確認しますが、日道さんも、血脈相承を受けた人で、戒壇本尊を相承されている人なのですよね?
 その方が、「二千二百二十余年」と書いている戒壇本尊がありながら、なぜ「三十余年」と書いてるという曼荼羅に背くなと言っているのかを問うているのです。
二十がいいか三十かなど言っているのではありません。なぜ書いてる通りに書いていないのかを言っているのです。
 現に、直にそれを拝したはずの日道さんは、なぜ戒壇本尊と違う内容の曼荼羅への信仰を求めているのかと言っているのです。

 ちなみに、昭和期に私と同様の指摘をした安永弁哲氏に、細井日達さんは下記のように言ってます。

「安永君は板御本尊の下方の部 に 仏滅後二千二百二十余年 未曾有の大漫荼羅の御文が入れてあるというが、よくも斯様な 出鱈目が言えたものと唯あきれる許りである。
一度も拝せずして世情の与太議論の書を半齧 りして根も葉もないことを誠しやかに論ずることになる。」

いったいどうなっているのですか?
細井さんに至っては、二十余年までも否定されている。
開帳できる貴殿は、ご覧になられた時にどう書いてありましたか?是非教えてください。
>「一、脇士なき一体仏を崇めるは謗法の事」

これは、日興上人、原殿御返事など見れば、日興上人のご見解でしょう。

しかし、どう解釈したら
>「釈尊像を本尊として崇め、正像二千年間に未曾有(すなわち末法に初めて出現)の曼荼羅御本尊に背けば、無間地獄に堕ちる」との趣旨で、釈尊像を崇めることを批判されたものに他なりません。

こんな歪曲解釈になるのでしょう?
日興上人、原殿御返事
「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候えども、未だ木像は誰も造り奉らず候に、入道御微力を以つて形の如く造立し奉らんと思し召し立ち候に、御用途も候わざるに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代わりに其れ程の仏を造らせ給えと教訓し参らせ給いて、固く其の旨を御存知候・・・・・御力契い給わずば、御子孫の御中に作らせ給う人出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候いしを安置候べし」

簡単に記しましょう。
「脇士のいる立派な仏像を造りなさい。それが叶うまでは、宗祖の曼荼羅を安置しなさい」と。

 どこをどう解釈して「「仏滅後二千二百三十余年が間、一閻浮提の内、未曾有の大曼荼羅なりと図し給ふ御本尊に背く意は罪を無間に開く」が「釈尊像を崇めることを批判」となるのですか?

 後世、日興上人は、脇士ありの仏像肯定から曼荼羅正意にかわります。しかし、それでも、釈尊否定の書はありません。あるならば提示されてください。むしろ賛美です。
言い換えるならば、「脇士なしの釈迦像」を否定しますが、「脇士ありの釋尊像」を否定している書はありません。むしろ肯定です。
 富士一跡門徒存知事でも、日興日順口授と言われる五人所破抄でもそうです。


 あなたの主張は、宗祖、日興上人を貶める主張です。冷静に事実に向き合われてください。

 古文とは言え、日本語です。二十余年と書いてる究極の戒壇本尊がありながら、三十余年と書かれているわけで、そう解釈したい気持ちも分かりますが、私は何度も言う通り、「戒壇本尊が宗祖作であることが証明されれば、すぐさま大石寺に入信」しますが、貴殿は別段やめないでもいいですから、もう少し冷静に、事実を探究されてください。
 真実の日蓮聖人への信仰は持ってほしいと心から願うばかりです。

   ごめんさない。
三つになってしまいました。

 貴殿の解釈論では、多忙の貴殿の時間も大変でしょうから、もう一つ挙げておきます。

「御本尊七箇相承」
「仏滅度後と書く可しと云う事如何、師の曰く、仏滅度後二千二百三十余年の間、 一閻浮提の内・未曽有の大曼荼羅なりと遊ばさるる儘書写し奉るこそ御本尊書写にてはあらめ、之を略し奉る事大僻見不相伝の至極なり」


「私が書いたままに書写しなさい」とある中に、これまた「二千二百三十余」とあります。この書の偽書説は、法論を進める中でどこかででるとは思いますが、当然この書は大石寺圏では重要書でありますよね?
 「私が書いているまま」書写しなさい。では、戒壇本尊はどう書いているのですかというのが、もう昭和期から言われてきた疑義です。
 どちらかが偽か、それとも両者か。少なくとも両者が真であることは、この事実からはあり得ません。

 私が挙げている文章は、富士宗学要集からのものであり、「解釈論」うんぬんの内容ではありません。


 さらに、貴殿の時間を考慮して、同じ三師御伝土代には、
「その時大聖人御感有て日興上人と御本尊に遊ばすのみならず・・・」
熱原法難の時に書かれた本尊には、「日興上人」と書かれたとあります。これまた戒壇本尊と矛盾します。

 再確認ですが、戒壇本尊は、熱原法難の法華講三人の斬首が契機というのが大石寺のアナウンスですよね?


 それがつまり、上記の「その時に、大聖人御感有て・・・」のその時ですよね?
熱原法難で法華講の人が斬首されたのが十月十五日、その方が宗祖に届いたのが十七日。 これは富士年表で明確です。
 つまり、熱原法難と戒壇本尊はまったく無関係です。当然ご存知ですよね?

 こうした「事実」を受け止めてしまえば、「それは謗法だ」などと扇動されて、そうした冷静な判断さえ奪われてきてしまっていませんか?

 あなたの解釈はおいといて、貴殿はいたって真面目な探究者であろうと拝察しております。
 なんども言いますが、私が挙げているのは解釈論で語る内容ではありません。書かれている「事実」です。


>この文意は、心静かに本文を読めば、誰にでも理解できるでありましょう。

 まさに、貴殿の云われる通りであります。誰にでも「矛盾」として理解できるのではありませんか?


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