法華講員 VS 日蓮宗住職<序章>

メール7・日蓮宗住職からの抗弁
(平成29年9月27日 受信)

 
  さて、返信遅くなりました。
 
 彼岸、また今日は御嶽山の噴火犠牲者の慰霊に行っていたので遅くなりました。
なかなかご都合の悪いところにはお答えを頂けないようですので、ちょっとここまでのやりとりで、決定されたことを一つ確認させてください。
 
 質問 一 ・・・戒壇本尊が宗祖筆である確たる証拠は持ちあわせていないということは自覚されているのですよね?証拠は無いけど、戒壇本尊に纏わる大石寺のアナウンスを信じておられるということでよろしいですね?
 
 では、答えていきましょう。
 もちろん、審判が下るまでやりましょう。人類の幸福の為に、または誰かが詐欺的宗教に騙される可能性がなくなることですのでね。
 
 ①②③日有だろうが日因だろうが、血脈相承者であるにもかかわらす、誰が言った書いたを拘る意味が分かりませんが、では、日有=日因=他歴代大石寺住職が言えなくなるのではないのですか? まあ、それを一信徒であるあなたがお認めなことはすでに確認しましたのでいいでしょう。


 大石寺が売りに出された時代の方ですからね。曖昧になるのもうなずけます。戒壇本尊がありながら大石寺を売りに出されてしまうというのも、「それはどうしてだろう」と冷静に探究されるのが道理というものだと思いますが、それができない。ただただ大石寺のアナウンスを鵜呑みにしてしまう。

 本当に残念なことですね。
 日有さんとすれば二十貫で買い戻して頑張ったのでしょう。大石寺の存続の為に右往左往なさったのでしょうね。
 さてまず、あたなの文意であると、日有に至っては、「戒壇本尊についてはまったく触れていない」ということを認めていることになりますが、それでいいのですね?
ですから何度も聞いている通り、

 質問二・・・戒壇本尊の初出は、誰のなんという書物ですか?なぜ答えないのか理解できません。関連項目ですよ。

 せめて日有くらいの時代にでも初出があればまだいくつかの疑念には対応できそうなものですが、もしも初出が日寛なら、宗祖滅後およそ五百年、日因ならさらに後。五百年ですよ?五百年。
 日有ならおそよ宗祖滅二百年でしたがね。

 だから私は「この書も三十一世になって突然出てきたので、文献学では日有の書かも疑義がだされてきたものですが、大石寺では、これが初出とするわけですね?」と聞きましたでしょ?それをあなたが違うという。
であるならば、

 質問二・・・戒壇本尊の初出は、誰のなんという書物ですか?

 なぜ答えないのでしょうか?逃げずに答えましょう。
 次に、「高橋智遍」『創価学会が真実ならば私は日蓮聖人の信仰をやめる』という書を読んだことはありますか?
その十一頁.
【二】日蓮聖人滅後二〇〇年ごろ、はじめて出てきた「板マンダラ」
という項で、日浄の『日有、開山の本懐に背き、未聞未見の板本尊これを彫刻す』という一説を挙げて、日有が突然言い出したと説明しています。
これに対して、「日蓮正宗創価学会批判を破す」の中で、ご丁寧に高橋氏の項目をつくってなんと反論したか。
 日浄の批判に終始し、何も触れずですよ。あなたと同じように「戒壇本尊初出」についても触れない。

 さらに、日因は「日法伝」として「家中抄」を引用して、戒壇本尊の詳細を言うのではないのですか?
 さらに御書を挙げて「一躰ならず三躰まで作る」と言ったかと思えば、
「此御書は世間希なる間今具に之を書くなり、然に此の中に一体に非ず三尊まで造ると者当山の最初仏重須正御影なり、一躰は岡宮に之有りと云へり、又七面の明神者本来之有るか、七面の池之有り此池水に浮ひ出たる楠木なり、此板御本尊倶に三尊と遊されたるか、亦板御本尊の事をは略し遊されたるか測り難き者なり。」と。
『此板御本尊倶に三尊と遊されたるか、亦板御本尊の事をは略し遊されたるか測り難き者なり。』だそうですよ。
 つまり、時系列で言えば、日法、日有、日因。日有は、日法彫刻も戒壇本尊の詳細も、どこにも触れずにこの世を去ったということですよ。
 で、宗祖滅五百年の日因が、「戒壇本尊のことは略されたのかどうか分からない」と。
そりゃそうですよね、宗祖滅五百年の人が分かるわけありません。

 もしも日蓮宗の僧侶で、宗祖滅後五百年の人が、あなた方と同じように「日蓮宗にだけ伝わるこの曼荼羅が正当な曼荼羅だ!」などと主張したら、あなたはなんと言うのでしょうか?
 少なくとも、そんな固有の曼荼羅を取り上げて、これこそ宗祖出世の本懐で、その他の曼荼羅は枝葉のようなものだなどという主張をするのは、大石寺と保田の万年救護本尊と、小野寺さんくらいでしょうか。

 鬼の首を取ったようにあれは「あれは日因著作」だと言いますが、それこそ日有の時代には戒壇本尊がなかった証拠でしょうに。

 あなたは日寛が言ったので間違いないと言いたいでしょうけれど、日因は日寛の後、たったの十四年後の相承者ですよ。

 それがこのあり様です。こんな適当な相承を信じることが、はたして宗祖の本意であるのかどうか、冷静にお調べになられてはいかがでしょうか。

 では、初出は誰がなんという書で残したのですか?宗祖滅何年の書ですか?
加えて日付まで宗祖の命日と間違える始末。
なぜこれを問題にしないのですか?冷静に探究されてみてはいかがでしょうか。
こんな矛盾だらけの本尊やら血脈やらを信じて、結果人を騙している可能性すらありますよ、このままでは。

>いずれにせよ、本宗では、血脈相承を尊びますが、
よくもこんな曖昧な相承を尊びて、無責任にも人を勧誘できるなと、事実を知らず入信する人達が哀れで仕方ありません。

>質問は、当初の疑難が決着してからにしてください。さもないと、話題がどんどん拡散して、明確な結論が出なくなってしまいます。
全て関連質問ですよ。
なぜ答えないのでしょうか。初出の書は、大石寺の正式な見解ではなんという書物なのかを聞いているだけですよ。


>「で、その最古の書の執筆者の時代まで、宗祖はおろか日興上人も日目、日道もだれも戒壇本尊にふれていないのは何故ですか?なんとも思いませんか? 」との問いにも、順を追って回答してあげますから、慌てずお待ちなさい。

これも関連質問ですよ。
九世が初めて世に言い出したという疑念にはそれを否定せずここまできておいて、では誰なんですか?
それは宗祖滅何年ですか?と聞いているだけですよ。


⑤都合の悪いことは答えないのですね、やはり。
「対比」などと言ってますが、『二千二百三十余年云々と書いてある本尊に背くな』と書かれている以上、二十余年とある戒壇本尊は、御伝土代から言えばまったく該当しない矛盾を言っているのですよ。

こんな分かりやすい指摘を意味不明とは、それこそ意味不明です。
また難癖で言い逃れをされるのでしょうけれど、
日順「本門心底抄」
『仏滅度後二千二百三十余年の間・一閻浮提の内未曽有の大漫荼羅なり、朝には低頭合掌し・夕には端坐思惟し・謹んで末法弘通の大御本尊の功徳を勘ふるに』

日尊「日尊実録」
『本尊の銘に云く仏滅後二千二百三十余年之間一閻浮提之内未曽有大曼荼羅也』

日眼「五人所破抄見聞」
『仏滅後二千二百三十余年の間一閻浮提の内未曾有の大曼陀羅と遊ばす也、所仏・菩薩・諸天等は衆生利益を肝要とせり、三十余年とある文永十一年のころよりの御筆の曼陀羅、猶以て肝心也』

これらの「三十余年」は、以前挙げた「本尊七箇相承」とは合致し、戒壇本尊とは合致しない。
これが矛盾でなくてなんなのですか?

 また違う書だ!と言って逃げますか?全て御伝土代と同様の「三十余年と書いてる!」という書ですよ。


 この中でも日尊「銘に云く」日眼の「三十余年とある文永十一年のころよりの御筆の曼陀羅、猶以て肝心也」。
こんな明確な言がありながら、「対比」ですか?「釈尊像を崇めるな」ということですか?それのほうが意味不明です。
 これらの僧侶は、「そう書いてる現物について」言っているのでしょう?
日本語だとそう読む以外に解釈できませんが。

 最後はまた日寛の「二十余年」を出しますか?
なぜ、上代の弟子よりも、宗祖滅五百年の歴代が優先されるのですかね。

 全て日本語ですよ。
上記の書にも、当然御伝土代とも戒壇本尊とは無関係であると明確だと言っているのですよ。
何が意味不明なのでしょう?

三十余年と戒壇本尊の矛盾に関する関連書物です。
逃げずに向き合ってください。


⑥捏造に捏造を重ねてきた日蓮正宗の義など証明になるわけないでしょうに。

>その全ての御本尊の中心・本体にあたるのが、広宣流布の暁に本門戒壇に安置される弘安二年の大御本尊である、

質問 三 ・・・その根拠を挙げてください。宗祖筆の証拠もない。疑念だらけ。
よくもまあこんなでたらめを言えますね。是非根拠を示されてください。


質問四・・・弘安二年十月著作の宗祖曼荼羅だけでも三遍現存。なぜ弘安二年の曼荼羅なのか?そして、それが戒壇本尊だと言えるのかの根拠を示してください。

ちなみに、弘安二年以降の宗祖筆曼荼羅はおよそ六十遍。宗祖は、出世の本懐ほどの曼荼羅を図じした後、信仰の対象とできない枝葉の曼荼羅を六十遍も書かれたのですか?
これを信じてしまうことに、疑念を抱かないですか?



>したがって、宗祖の顕わされた仏滅讃文が「二十余年」の御本尊も「三十余年」の御本尊も、いずれも宗祖大聖人の御魂ですが、総体の本門戒壇大御本尊から離れた曼荼羅は、信仰の対象とはできない、というのが本宗の教義信条であります。



質問五 ・・・ご自分で書かれていて、なんの疑念も抱かないのでしょうか?上記の根拠を挙げてください。日蓮正宗の教義信条などなんの答えにも根拠にもなりません。

>これだけ説明すれば、貴職の批判が全くの的外れであったことがわかりますよね。

長文を挙げられたのはいいですが、なんですかこの根拠なき希望的解釈は。

⑦>大御本尊の下部には別な示し書がありますので、その上の花押の、更に上を「下部」とは言いませんよ。

質問六・・・では、あの位置を何部というのですか?

もちろん、知ってますよ。
「右為現當二世 造立如件・・・・」という、字体も宗祖のものでもなく、金箔もなぜかそこだけ無いというところですよね?それ故に、写真でも見ることが困難な箇所ですよね?

「御首題御勧請皆金薄入りなり」ですので、勧請ではないから金箔はほどこされていないという言い訳を、もう散々聞いてきましたが・・・。
「右」と言いながら、なぜ花押の下にあるのか、不思議に思いませんか?
少なくともあの箇所が、後世にとって付けたパッチワークだと言われる所以ですね。
ちなみに、花押の下に授与者やら造立理由が書かれている宗祖筆曼荼羅も日興上人筆曼荼羅も私は見たことありませんね。
開帳の時、どうぞお近くに行かれて、はたして宗祖の筆かどうか御確認されてはいかがでしょうか。

ご教授お待ちしております。



>貴職が言いたかったのは、日達上人が二千二百二十余年を否定した、というのでしょう?
 「下方の部ではない」と言いたいが為に、「 安永君は板御本尊の下方の部に仏滅後二千二百二十余年 未曾有の大漫荼羅の御文が入れてあるというが、よくも斯様な出鱈目が言えたものと唯あきれる許りである。一度も拝せずして世情の与太議論の書を半齧りして根も葉もないことを誠しやかに論ずることになる」と言ったのですか?細井さんは。

 では、あそこは「下方の部」ではなくて、なんという箇所であると、大石寺ではされてきたのですか?ご教授ください。

 ちなみに、ここでは参考程度にしますが、細井さんが昭和四十一年一月一日書写した曼荼羅は、最下部に「仏滅後・・・・」とあり、そこには「二千二百三十余年」とありますね。
統一性のかけらもない歴代の書写ですね。

>何も私が特別に見て知っているわけではありません ( 笑 ) 。

 見えないものを信じて大石寺のアナウンスを鵜呑みにして、それを信じてしまっていることはよく分かりました。人を誘うにはあまりに無責任ですね。
実物を見たこともない顕正会員となんら変わりませんよ。

いちいち「(笑)」など使わないほうがよろしいかと思いますよ。子供のケンカではないのですから。

>大御本尊の仏滅讃文が二千二百二十余年であることは、本宗内では広知の事実

 ええ、ですから、それが大きな矛盾をきたしていることを言っているのですよ。
上代は皆「三十余年」、後世は「二十余」。そんな矛盾が理解できませんかね。
本宗の広知の事実などなんの答えにも根拠にもなりません。
都合よく捏造してしまえば、広知の事実になりますからね、当然。
 しかしそんなものは通用しません。根拠を示してから人を勧誘すべきですね。詐欺の加担になりかねませんよ。

⑧>私は、あくまでも議論の土俵は、日道上人の文意についてでなくては、議論が拡散して収拾がつかなくなる、と言っているのです。

 溜息が出ますが、日道さんは日興上人からの系譜の人で、それをまとめたものが三師御伝土代ではないのですか?
 それを、「三十余年」と戒壇本尊の矛盾について、「釈尊像を崇めるなという意味」だと言ったのはあなたでしょう?
 では日興上人に「釈尊像を崇めるな」というお考えがあったのかを調べるのは当たり前でしょうに。
 こんな簡単な道理が分かりませんか?
 それとも、また日興上人よりも後世の言を優先しないと都合が悪いですか?


⑨全て戒壇本尊に纏わる疑念ですからね、答えず逃げることはないでしょうから、お待ちしておりますよ。

 大変申し訳ないのですが、大石寺やら日蓮正宗の主張など、なんの根拠にもなりませんよ。宗祖、日興上人、上代の弟子の言っていることと矛盾しているのですから。
なぜ上代の書よりも後世の歴代を優先するんですかね、大石寺の皆さんは。

まあ、そうでないと矛盾が解消しないのは分かりますが、宗祖に対する実直な探究とは到底言えませんね。


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