異流義・正信会を折伏しよう

この論文は、昭和57年当時に執筆されたものです

正信覚醒運動の変遷 1. 本宗信仰の根本

昨今の本宗内外の情勢は、混乱まさに極に達するの感があります。こうした時こそ、『涅槃経』の
  「法に依(よ)って人に依らざれ」
との仏誠のごとく、個々の檀信徒が、正邪を峻別(しゅんべつ)する法義上の基準をしっかりと身に体すべきであります。
  すなわち、我々の周囲に氾濫(はんらん)する種々の偏見や、政治的意図による情報操作等に惑わされることのなきよう、人情・私情による判断を捨て、あくまでも法義に基づく判断をもって邪正を分別していくことこそ肝要なのであります。
  さて法義といえば、宗開両祖以来の文底仏法の深義を、公明正当かつ精密に解釈され体系づけられた御方は、二十六世日寛上人であられます。日寛上人は『当流行事抄』に、本宗信仰の根本を仏法僧の三つに分かち、
  「久遠元初の仏法僧則(すなわ)ち末法に出現して吾等(われら)を利益し給(たも)う、若(も)し此(こ)の三宝の御力に非(あら)ずんば極悪不善の我等争(いか)でか即身成仏を得ん、故(ゆえ)に応(まさ)に久遠元初の三宝を信じ奉るべし」(聖典949㌻)
と仰せられ、さらに『当家三衣抄』には、この三宝の形貌(ぎょうみょう)を簡潔に明かされて
  「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、
……南無日蓮大聖人師。
……南無本門戒壇の大本尊。
……南無日興上人師。……日目上人師、嫡嫡付法歴代の諸師」(聖典971㌻)
と御教示くださっています。
  じつに、この久遠元初の三宝こそ
  「仏法の根本」 (聖典949㌻)
にして、我が日蓮正宗の法義の根本をなすものであり、我々末法の衆生は、この三宝尊を信じ奉ってこそ即身成仏が叶うのであります。

正邪を分別する基準
  最近、ことに「謗法厳誡」の精神が叫ばれますが、この謗法という概念とて、宗祖大聖人は
  「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書608㌻)
と御決定あそばされており、要するに仏法僧の三宝に対する不信背反の義が根本的な謗法にあたるのであります。むろん、一概に謗法といっても種々の内容は考えられますが、それは大聖人が
  「謗法の者にも浅深軽重(せんじんきょうじゅう)の異なりあり」(御書905㌻)
  「鹿をほうる犬は頭われず、師子を吠うる犬は腸(はらわた)くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし提婆は大地われて入りにき。所対によりて罪の軽重はありけるなり」(御書979㌻)
こ仰せのとおり、所対によって自ずから罪の浅深軽重に異なりが存するのです。そして、やはり根本である三宝に対する誹謗と背反こそが、もっとも根本的な謗法であり、極悪中の極悪ともいうべき重罪になることは、当然でありましょう。
  したがって、御本仏宗祖日蓮大聖人(仏)、弘安二年の本門戒壇の大御本尊(法)、血脈付法の第二祖日興上人以来の御歴代御法主上人(僧)という、久遠元初即末法下種の三宝に対する〝信・不信〟の違いこそが、成仏と堕獄の分かれめであり、正信と謗法とを分別する基準なのであります。
  もとより本宗の化儀化法、修行、信条等々はすべて、この末法下種三宝に対する信仰に付随して存するものでありますから、三宝に対する〝信・不信〟こそ、もっとも根本的な、かつ明瞭簡潔な〝法義上からの邪正を分別する義準〟といえるでしょう。
  今日のような混沌とした状況の中にあっては、少なくとも、こうした根本の基準だけはしっかりと弁(わきま)えておかなければ、正信に止住して成仏を遂げることなど思いもよらなくなってしまいます。

三宝護持が末法の信仰

さらに一歩進んで『佐渡御書』を拝すれば、
  「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かとうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如(ごと)くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書579㌻)
と仰せであります。ここに「悪王」「邪法の僧等」とは、前の基準にしたがって判ずれば、末法下種の三宝尊に背反する在俗・出家であり、「智者」とは仏(分かてば仏法僧の三宝)に他なりません。
  そして末法における仏道修行とは、謗法背反の者が三宝尊を仇(あだ)み、倒さんとする闘諍堅固(とうじょうけんご)の世相の中で、獅子王のごとき信心を奮い起こして三宝を厳護申し上げ、謗法者と闘う折伏の修行であります。かく信じ行じてこそ、護法の功徳力によって必ず成仏を遂げることができるものと拝するのであります。
  この時に憶して起てぬ者は、
  「いわずば今生(こんじょう)は事なくとも、後生(ごしょう)は必ず無間地獄に堕つべし」(御書539㌻)
  「法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(御書1262㌻)
と仰せのごとく、自らも仏法の中の怨(あだ)となって、成仏は叶わぬことを知らなければなりません。
  以上に述べてきた筋道に立つとき、我々の信心修行の根本とは、まさしく末法下種の三宝尊をお護り申し上ぐるところに尽きるのであって、すべてが、この信念を基にした判断・行動であるよう、日々、自らを誡め磨いていくことこそ肝要なのであります。

すべて起因するところは

  昨今の宗内の不祥事や混乱も、ひとえに、こうした本宗の法義と信仰の根本を踏み違(たが)えるところに起因している、といっても過言ではありません。
  混乱の発端となった創価学会問題にせよ、学会が〝池田会長本仏論〟を指向したところから、自ずと本宗の三宝尊の立て方に違背する本仏観・本尊観・血脈相承観が生じ、御先師日達上人の御宸襟(しんきん)を大いにわずらわせたのでした。
  また、学会の謗法逸脱を糺(ただ)すべく始まった正信覚醒運動においても、当初の原点から次第に外れて、いまや唯授一人・血脈付法の深義に異解を生じています。これ、本宗における僧宝の立て方を乱し、本宗信仰の根本を破するものであります。
  このけじめに迷いを生じている方も多勢おられるようなので、この際、今日に至る正信覚醒運動の変遷について述べておきたいと思います。
  もっとも、私個人の心情としましては、このような原稿を書かなければならない状況が訪れてしまったことが、まことに残念でなりません。
  覚醒運動に携わる方々のなかには、これまでお世話になったり、親しく激励していただいた方もおられますし、今日に至るまで私白身も種々悩み、葛藤がありましたけれども、やはり御先師日達上人が、
  「私の次の代、その次の代になっても、少しも変わらず信仰を続け、総本山の法主を中心に御奉公を貫いていく、それが正しい本宗の信仰の在り方ですよ」(昭和五十三年一月のお目通り)
と仰せられた御教示を想い、また本宗の法義・信仰の根本を明示された日寛上人の御指南を拝し、意を決した次第であります。