異流義・正信会を折伏しよう

この論文は、昭和57年当時に執筆されたものです

正信覚醒運動の変遷 4.無節操な宗門誹謗の論理

檀徒新聞『継命』の論調に、御先師日達上人の御指南から外れる傾向があったため、日達上人の命を受けた宗務院より院達3047号が発せられたこと、また、それに対し『継命』側では宗門を愚弄(ぐろう)する態度で応じたこと等々については、前にも述べたとおりです。
  しかして日達上人は、御遷化の直前、
  「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ」
と仰せられ、覚醒運動の路線に重大な危倶(きぐ)を懐かれておられました。
  この、日達上人の懐かれていた危倶が現実のものとなり、突然、『継命』の論調が変わったのは、日顕上人猊下が御登座されて三ヶ月後、同紙第7号(54年11月1日号)でした。

ベールを脱いで宗門攻撃

それまで、たとえ学会を激しく攻撃し、宗門より注意を与えられてはいても、直接的に宗門を批判したり、御法主上人を誹謗・嘲弄(ちょうろう)したりする記事は掲載していなかった同紙が、にわかに変貌したのです。
  いわく
  「(日顕上人御登座直後の)尊いお姿がいつの間にか霧の中に隠れ、開かれた心が閉ざされ、何でも聞いてくださる筈が、威嚇(いかく)と高圧と一方的な話の片道通行になってしまった」
  「政治的なご都合主義で、純粋に思いつめた十万人の信徒をもてあそぶことが、宗門の将来にとってどれほど危険なことかをよく認識されるべきである」
  「あるいは数と権力だけを追うことを意味する池田流の広宣流布路線にのせられて、当初の謗法に対するきびしい感覚をゆずられたのか」
等々。宗門批判あるいは強迫とも受け取れる言辞(げんじ)、あるいは御法主上人を卑しむ表現が散見されるのであります。
  後に、「正信会では何度となく誠意を尽くして日顕上人に言上申し上げたが、何ら誠実な回答もないので、このような師を捨てる以外になくなった」等の言い分を耳にしましたが、いったい日顕上人猊下の御登座後わずか三ヶ月にして、それも公物たる新聞紙上に、かかる不遜な記事を掲載しながら、なにが「何度となく誠意を尽くして言上」なのでしょうか。
  これを、弟子檀那分にある者の、師を想う赤誠の心情と呼ぶことはできないのであります。

日達上人に対する本音(ホンネ)

また、同紙上に、
  「事態の深刻さにあわてた池田大作が急きょ登山して来て平身低頭して謝(あやま)り、七百遠忌の費用として35億円を御供養すること等を申し出、『何とか手を切ることだけは許して下さい』と懇願(こんがん)した。その結果、前法主も急転、『手を切ることはしない(略)』との方針に変ってしまった」
と述べられている点なども、事実を歪(ゆが)め、御先師日達上人の御高徳を著しく汚すものです。
  すなわち、池田大作氏が「何とか手を切ることだけは許してください」と、平身低頭して謝罪したので、日達上人は「貴方(あなた)がそこまで反省されているなら、今度だけは破門は……」と大慈悲をもって寛恕(かんじょ)あそばされたのです。その後に、訪中の話題や、七百御遠忌の御供養の申し出があったわけで、なにも35億円と引き換えに学会破門を許されたのではありません(その旨は日達上人からも伺っております)。
  『継命』紙は、これの前後を入れ換え、あたかも日達上人が法よりも金力財力を重んぜられたかのごとく、悪意をもって歪曲(わいきょく)したのであります。
  これが、日達上人御遺弟(ゆいてい)方の顰蹙(ひんしゅく)をかったためか、以後、同紙の論調はさらに微妙に変わります。

一転、日達上人の御名を利用

同紙第8号をみると、かの北条報告書に関連して、
  「前御法主上人の御指南は、明瞭かつ厳然としており、今回の院達とは天地の相違である。……これをひどいとか、猊下の信心そのものを疑うとかいう北条氏の信心の狂いぶりが目に余る。下衆(げす)の逆(さか)うらみとはまさにこのことである」
  「前御法主上人に対しても謗法よばわりであり、とても信服随従(しんぷくずいじゅう)などという気持のかけらも見られない」
  「我々は、前御法主上人を先頭に命がけで戦った。今、まだその決着がつかないときに、(日顕上人猊下が)『私はそういうことはないと確信します』『あるかないかわからないのに云云』等々と言うことが、いかに現実ばなれした、ナンセンスな論議であるかはいうまでもないだろう」
  「また、最近やはり、〝大所高所に立って〟とか、〝古い檀徒の姿とくらべて〟とか、〝学会の布教の功績〟とか(以上は日顕上人猊下お言葉中よりの抜粋)をたてに、正信覚醒運動に対する、的はずれの批判が試みられているやに聞く」
等々の記事、また『編集後記』にも
  「前御法主上人には、本紙紙名を御命名賜り、その意義を思うにつけ勿体(もったい)なくも故上人との深き因縁を感ずるものであります」
等の表現が散見されます。
  これ以後『継命』紙では、日達上人を讃嘆しつつ、対比する形で日顕上人猊下を誹謗する論調が目立つようになり、同時に、自分達の活動はすべて日達上人の仰せどおりのものであり、それを日顕上人猊下と宗務院が不当に弾圧している、といった印象を与える記事が掲載されるようになりました。
  鳴呼、何たる無節操でありましょうか。本音では日達上人をも軽賎(きょうせん)しながら、それが戦略に不都合と判断するや、たちまち日達上人を讃嘆し、その御名を旗印のごとく利用して檀信徒の眼を歎き、あまつさえ現御法主上人への反抗心を植えつける道具にするとは……。
  これほど卑劣で悪質なやり方もないでしょう。こうしだ欺瞞(ぎまん)に満ちた路線に乗せられ、涙ながらに、日達上人への御報恩=正信覚醒運動の完遂(かんすい)であると叫ぶ方々を目にしては、悲しみと憤(いきどお)りで胸が詰まる想いであります。
  ともあれ、第9号(55年1月1日号)以降の『継命』紙には、ひんぱんに日顕上人猊下を批判し、嘲弄する記述が載るようになりました。

およそ宗教人らしからぬ…

たとえば第9号には、学会サイドから入手したとする五十二年当時の宗門・学会の対談記録(むろん筆記したのは学会大幹部)とやらから、当時の教学部長であられた日顕上人猊下の御発言を引用し、その後に
  「このように(学会に対して)屈じょく的な態度を続けていた方々が、新たに宗門執行部を形成されたからといって、急に変ることも難しかろう。だから当面は我々におまかせいただいて、宗務当局は静観していていただきたいと申し上げたのである。それを、あえて火中の栗を拾わんと乗り出され、まったく見当違いの御指南で、自らを傷つけられることは、おいたわしくてならない。
  今日、宗門が、学会に対して対等以上にものが云えるのも、活動家と檀徒と、そして法華講の力があったればこそである。それを背景にものを云いながら、それに対して足げにするような態度は、およそ宗教人らしからぬといわれても弁明の仕様がなかろう」
等と述べています。
  これについて一言すれば、御登座以前の日顕上人御発言――それも、学会側で筆記した記録より抜粋しているわけですから、実際に話された内容がどうであったのか、信憑性(しんぴょうせい)がありません――を挙げることによって、檀信徒の、日顕上人猊下に対し奉る信頼・尊敬を失わせ、むしろ猜疑心(さいぎしん)と失望感を懐かしむるのが目的であった、としか思われません。
  そもそも、それまでいかなる年齢・立場にあられた方であっても、ひとたび宗祖御内証の法体を血脈相承されたならば、その時より、宗祖の御代管として僧俗大衆に血脈をいただかせてくださる〝大導師位〟につかれるのであるから、伏して尊敬申し上げねばならない、というのが本宗古来の伝承である筈であります。
  しかるを、ことさらに御登座以前の記録――それも信憑性の不確かなもの――を公器たる新聞紙上に載せ、『このように屈じょく的な態度』云云などと卑しむことは、まさしく城者破者(じょうしゃはじょう)の行為であり、純粋な檀信徒の信仰を狂わせ、やがては大導師から離反せしめる下準備であった、といわれてもやむをえぬことと思います。
  そのうえ、いかに口先で『おいたわしくてならない』などの言辞を弄しても、その日顕上人猊下に対する本心はあまりに明らかで、しらじらしい印象を免れぬのであります。
  また、『今日、宗門が、学会に対して対等以上にものが云えるのも』云云のくだりですが、これとて、かつて「大客殿や正本堂を作ったのも私です。その私を大切にせずに……」などと発言された方の発想と大差ないように思います。以前、私達は、自らの御奉公を恩きせがましく誇るような者は増上慢である旨、現在の正信会僧侶方より、御説法いただいてきた記憶ですが――。
  これでは『およそ宗教人らしからぬといわれれも弁明の仕様がなかろう』と思います。

反論と裏腹なその後の現実

こうした『継命』の論調を危惧(きぐ)し、覚醒運動の変貌を批判する声が、次第に宗内に高まりはじめたことは申すに及びません。それに対し『継命』第11号(55年2月1日号)では次のように反論しています。
  「この際、明確にことわっておきたいことがある。我々は一部の悪意に満ちた人々のいうごとく、徒党を組んで宗内抗争を行うとか、御法主上人にたてつくことを目的としているのでは決してない。すでに第六十七世として、尽未来際(じんみらいさい)の宗門史に名を残される方の名誉は、すなわち日蓮正宗の名誉と歴史とともにあられることを充分認識した上で、大聖人の本義に照らして、真実お護りすることこそ弟子の道であると信ずるゆえの行動であって、他意はない。」
  「我々が、かりそめにも、〝御法主上人を告訴する〟といった愚劣な論をなすはずがなかろう。こんなことで、三年間の生命がけの御奉公に泥をぬるような自殺行為をだれがするものか。策略で我々をおとし入れようとするような人物には、必ず仏罰が下るであろう。」
  これよりわずか一年もたたぬうちに、『第六十七世として、尽未来際の宗門史に名を残される』日顕上人猊下に対し「六十七世を詐称(さしょう)したニセ法主」と誹謗し、『徒党を組んで宗門抗争を行』ない、あくまでも『御法主上人にたてつく』悪口中傷を続け、あろうことか『御法主上人を告訴するといった愚劣な論』どころか(裁判所への訴えを)実行に移している現実を目のあたりにして、いったい『必ず仏罰が下る』のはどなたの身の上か、考えれば考えるほど、恐ろしさに身の震える思いであります。

疑惑を懐く檀徒が続出

これによく似た話ですが、ある檀徒の方が「うちの御住職から、『必ず三月には正信会が勝つから安心せよ』といわれていたのに、三月の終わり頃になると『六月だ、六月になれば正信会が勝って決着がつく』と変わり、その六月をすぎてみれば『七百遠忌には皆さんは必ず登山できます。安心して闘いなさい』といわれて、もう正信会が信じられなくなった……」と語っておられました。
  やはり、前言がくるくる変わり、指導されていたことと現実とがまったく相違してくれば、疑惑を懐く人々が現われてくるのも当然の道理です。それでも信じてついていく人が正信なのか、いちおう疑って正邪をたしかめてみようと思い立つ人が正信なのか、今さら申すまでもないことでしよう。
  「大聖人様が、ちゃんと、その血脈をいただかせてくださる法主上人を決めておおきになったものを、何とかして認めまいとして頑張るから、凡夫勘定(ぼんぷかんじょう)でエライと思う先生や和尚(おしょう)をかつぎ上げることになるのだ。……まことに困ったことで、田中智学を信ずることを知って、大聖人を信ずることを知らぬ。大聖人様を信ずることを知って、大聖人様のお定めになった法主を『あれは凡夫じゃ』といって信じない。それでいながら、凡夫の偉い先生にハマリ込んで、その先生のいうことならば雪も墨と信じ切ってしまう。」
  白を黒だといわれれば黒と信じ、黒ではなく赤だといわれれば赤と信ずる、そうした信仰態度はややもすると純真とも思えますが、じつは盲信、堕地獄の因に他ならぬのであります。

ついに異流義化への〝脱皮〟

昭和55年1月26日、総本山大石寺・大講堂にて開催された第4回檀徒大会の席上、『現況報告』として登壇された児玉大光師は、次のような興味深い発言をしています。
  「53年の6・30や11・7は末端まで伝わってないではないですか、と質問しますと、北条さんは、それは今後ともひき続いてやっていきます、とおっしゃいました。実は、それは表向きのことなのです。裏では本山の七百年の歴史、ありとあらゆる七百年の出来事を調べてチェックし、状況いかんでは居直り、反撃しようとしていたのです。その証拠書類は、すでに我々が入手しております。私も見ました。ですから、我々は北条さんに、『どうぞ別れるときは、宗門のことをあれこれほじくり出して、なんとでも悪口雑言(あっくぞうごん)おっしゃってください。我々にとっては戒壇の御本尊と御法主上人、七百年の歴史があれば、充分あなた方と戦えるんだ。いつでもお相手します』とも申し上げました。」(以上、『継命』第12号より抜粋)
  ここで、かの6・30の際に学会側が密かに用意していた〝宗門七百年の歴史をチェックした宗門攻撃のための極秘文書〟の存在と、それがすでに正信会側に入手されていることが明らかにされました。
  この文書は、後に〝活動僧侶有志〟の名で『創価学会機密文書・宗門への質問状』と題する小冊子として活字にされていますが、私が前に「興味深い」と述べましたのは、この『宗門への質問状』の内容を踏まえたうえで、児玉大光師が「宗門のことをあれこれほじくり出して、なんとでも悪口雑言おっしゃってください。我々にとっては戒壇の御本尊と御法主上人、七百年の歴史があれば、充分あなた方(学会)と戦えるんだ」と断定されている点です。
  ここには、たとえ七百年の宗史を調べ上げて作成した『宗門への質問状』といえども、本宗の正統法義に照らせば完膚(かんぷ)なきまでに破折できる、との確信が窺(うかが)われるのであります。
  ところが、この『宗門への質問状』なる小冊子が宗内に出廻ってから時を経ずして、久保川法章師が『世界宗教への脱皮』を発表、これが、『正信会報』56年1月号及び『継命』第34号(56年2月1日号)等に大きく掲載されました。そこに述べられる血脈相承断絶の疑難、日精上人の造仏・読誦に関連した唯授一人血脈に対する疑難は、なんと驚いたことに、学会で作成した『宗門への質問状』の内容をそのまま底に敷いたものだったのです。
  以前には「戒壇の大御本尊と御法主上人、七百年の歴史があれば、充分これと戦えるんだ」といって一蹴した『宗門への質問状』であったのに、ひとたび自分達が宗門・御法主上人と対立するや、今度はこれを宗門攻撃の武器として利用するのですから、これでは宗教者として、あまりに節操がなさすぎると思います。
  また、その時その時の勝手な都合で、邪義が正義になったり、正義が邪義になったりするようでは、いったい何が正信会なのか、首を傾げざるをえません。
  こういった行き方のなかに、結局は自分達の立場や考えを至上のものとして、それを押し通すためには白を黒とし、黒を白とするような、独善的で御都合主義な体質が感ぜられてならないのであります。
  宗祖日蓮大聖人は、諸宗で立てる教義を批判されて、
  「荘厳己義(しょうごんこぎ)の法門なり」(御書559㌻)
と仰せです。荘厳己義の法門とは、法門の道理を根本第一とするのでなく、自分達の立場や我意・我見を第一として、それを粉飾(ふんしょく)するために、その場その場の都合でほしいままに法門をもてあそぶ行き方をいいますが、『世界宗教への脱皮』の発表は、まさしく正信会路線が荘厳己義の法門へと陥(おちい)った証明、といっても過言ではないでしよう。
  ともあれ、この『世界宗教への脱皮』において、本宗七百年の血脈観に異説をさしはさみ、御当代日顕上人猊下の血脈を否定したことによって、正信覚醒運動ははっきりと異流義化への道をとりました。そして、内外の多くの賛同者を失うと同時に、宗内を泥沼のような混乱へと引き入れたのであります。
  結果として、覚醒運動は行き詰まりの様相を呈(てい)し、明らかに興から亡への段階を迎えました。その状態をもてあましてか、『継命』第50号(56年10月1日号)に掲載の児玉大光師の寄稿では、
  「久保川論文にしても……論文というよりは、自坊での御説法の原稿である。百歩ゆずって間違っていたとしても、御説法を間違えるたびに擯斥(ひんせき)ではたまったものではないが、それが全国檀徒機関紙に掲載され、あたかも『御戒壇否定』と受けとられたのは、誠に遺憾(いかん)である。……これでは末寺住職はおちおち御説法も出来ぬし、機関紙にも危なくて投稿(とうこう)もできぬ」
等、久保川法章師の論文はあくまでも個人的見解を述べたものであって正信会の公式見解ではない、というような印象付けがなされています。
  しかしながら、久保川論文は『全国檀徒機関紙に掲載され』て、当時、多くの檀徒の学習教材にまでなっていたわけですから、〝今さら〟という感は禁じえません。
  大聖人は、
  「わざわいは口より出(い)でて身をやぶる」(御書1551㌻)
  「千年のかるかやも一時にはひとなる。百年の功も一言にやぶれ候」(御書1183㌻)
等と仰せですが、まさしく、久保川論文の発表はあまりに軽率(では済まされませんが)がすぎたというべきでありましよう。

無節操な血脈否定への経緯

ここで、御当代日顕上人猊下の血脈に対する誹謗について、一言しておきたいと思います。
  申すまでもなく御当代日顕上人猊下は、昭和五十四年七月二十二日、御先師日達上人の御遷化に伴い第六十七世の法燈(ほっとう)を嗣(つ)がれ、御登座あそばされました。
  正信会と称する僧侶方が日顕上人猊下の御相承を云々しはじめるのは、これより一年半も後のことですが、すでにこの当時、御相承に疑義をはさむ一部の不心得な人々があったようです。当時の週刊誌には
  「阿部日顕新法主は、この血脈相承を日達上人から昨年(※昭和53年――筆者註)4月に受けていたといわれる。ところが、それに『異議あり』と、宗門内の僧侶の一部の間で疑問が出されているというのである。
  疑義を唱えている僧侶の言い分によれば、相承があったというにしては、宗門の慣習にのっとっていないのだそうだ。(略)相承があったことを発表するパターンは、〝何年何月何日何時より何時問にわたって、御金口嫡々(こんくちゃくちゃく)と相承の儀が行われ……〟という言い方があるが、今度の椎名重役の発表はそうなっていない」
等の記事が掲載されています。
  要するに、御先師日達上人から日顕上人猊下への血脈相承の経緯が、たとえば六十四世日昇上人から日淳上人へ、あるいは日淳上人から日達上人への場合のように、前御法主上人の御存生(ぞんしょう)中に御相承の儀式が行なわれ、ただちに広く宗内に公表される、という経緯とは異なっていたために、こうした疑心暗鬼(ぎしんあんき)が生じたものといえましよう。
  しかしながら、こうした疑惑の声は、あくまでも一部の僧俗の間の、それもごく一時的なものに止まりました。それは、現在の正信会僧侶方を含む宗内のほとんど全僧俗が、日顕上人猊下を第六十七世御法主上人として拝し奉っていたことと、前のごとき疑義では、とうてい御相承を否定する根拠たりえないことを熟知していたからに他なりません。
  現に、日顕上人御登座一ヶ月後の8月25日に行なわれている第3回檀徒大会では、荻原昭謙師が『諸注意』として御相承の問題にふれ、
  「最近、某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、また恐れ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを、得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、たいへん情けない想いをいたしました。これは、もはや檀徒でもなければ、信徒でもありません。(略)
  御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承あそばす御法主、代々の上人を悉(ことごと)く大聖人と拝し奉り、その御内証(ないしょう)・御法体を御書写あそばされたる御本尊に南無し奉るのでございます。
  これに異をはさんで、なんで信徒と申せましよう。また、なんで成仏がありましょう。師敵対、大謗法の者でございます」(『第3回檀徒大会紀要』より抜粋)
とまで断定しているのであります。
  ところが、その後一年半の経過のなかで、前にも述べたような宗門との種々の不協和、対立が生じ、55年9月24日には宗門より正信会僧侶方に対する懲戒処分があって、正信会は真正面から宗門と対峙(たいじ)するに至りました。そのあげく、同55年末から56年初めにかけて、ついに正信会は日顕上人猊下の御相承を否定するという暴挙にでたのです。
  いったい、御登座から一年半もたってから御相承を疑うなど、とてもまともな思考では理解できません。もし、本当に御相承が疑わしいというのなら、何故、54年7月の時点で言いださなかったのでしようか。
  ましてや、54年の時点では、前に挙げましたように、血脈否定の輩(やから)を師敵対の大謗法と断じているのですから、ますます理解に苦しんでしまいます。
  また、一年半の間に、日顕上人猊下の御相承を否定せざるをえないことでもあったのかといえば、『継命』第36号(56年3月1日号)紙上で佐々木秀明師は、
  「一年数ヶ月、法主として登座の既成事実があれば、それが正しく揺るぎないもののごとき発言は、信心の道理を本とした宗門人の考え方とは程遠い。この間、(創価学会問題についての)質問状、抗議書、御伺い書、また在勤教師会の御伺い書等、宗門を真に憂う僧侶の訴えに、阿部師ならびに当局は知らぬ存ぜぬの姿。信心の上からも、もうこれ以上は忍耐の限度、と立ち上がった……」
と述べています。ここに明らかなとおり、学会問題に関する意見・方針のくい違いや、自分達の非礼な質問状に答えていただけぬことによって、最初は自分達も〝ある〟と認めていた血脈を〝なかった〟ことにしてしまったわけで、まったく『信心の道理を本とした宗門人の考え方とは程遠い』呆れはてた考えてあります。
  なお、『継命』臨時増刊号(56年1月22号)には、『日顕上人に相承なし』との見出しで、 「山崎正友氏が、昨年11月20日号『週刊文春』誌上で日達上人御遷化をめぐる具体的状況を描(えが)き、はじめて日顕上人相伝に対して疑義を指摘、一挙に問題化した。
  これを受けて正信会では、昨年12月13日付で日顕上人に、相承の有無をただす質問状を期限付で送った」 等、あたかも日顕上人猊下の御相承を否定する新事実が山崎正友氏より公表され、それによって正信会も御相承問題をとりあげたかのごとく述べております。
  しかしながら、山崎氏が述べた内容も、正信会が御相承に対する疑義として挙げた内容も、おおむねは54年7月当時に一部で囁(ささや)かれた疑惑と変わりがありません。
  要するに、かっては自分達も用いなかった、血脈否定の根拠にすらならぬ根拠を、一年半もたってから言葉巧みに引っ張りだし、さも一大不詳事が発覚したかのごとく騒ぎたてたのであります。
  こうした経過を見るとき、自らの意にそわぬ御法主上人であれば、その血脈を否定してでも排除しようとの、正信会の恐るべき体質が浮き彫りにされてきます。