異流義・正信会を折伏しよう

この論文は、昭和57年当時に執筆されたものです

正信覚醒運動の変遷 6.蘇生への道

そもそも正信覚醒運動は、創価学会の教義逸脱を糺(ただ)すところからスタートしておりますので、どうしても学会問題を抜きにして、すべてを論ずることはできません。
  したがって本稿の結びにあたり、現時点で学会の問題をどう捉(とら)えるかという点につき、少々述べてみたいと思います。

創価学会問題をめぐる経緯

昭和52年をピークとする創価学会の従来の路線のなかに、さまざまな行きすぎ、正宗教義からの逸脱、謗法があったことは、何人も認める現実であります。
  これに対し、宗門より再三にわたる指摘がなされた結果、いわゆる53年の6・30、11・7、54年の5・3等、不誠実な点はみられたものの、いちおう学会は宗門に陳謝(ちんしゃ)し、教義の逸脱(謗法)を改めていく旨、表明したわけです。
  御先師日達上人は、学会が同じ誤(あやま)ちを繰り返さぬならということの上で、「大きな心で学会を受け入れ、今後の動向を見守っていく」旨を御指南あそばされ、覚醒運動の終結を命ぜられました。
  それ以後、今日に至るまでの学会をみますと、いまだ不審に感ぜられる部分もありますが、機関紙誌の上にも、かつてのような大御本尊軽視、血脈否定、僧俗同格論、宗門軽視等々の指導は載らなくなり、法義からの逸脱を推進することはなくなったようです。
  したがって、学会総体としては、いまだ同じ誤ちを繰り返していませんが、会員の間ではいまだに五十二年路線の誤りに気付いておらぬ人や、堂々と会長本仏論を述べる人があったり、また「学会にも池田先生にも、やはり一点の誤りもなかった」などと指導する幹部もいたりで、反省悔悟(かいご)が徹底しておらぬことは事実であります。
  しかし、だからといって「学会には一分も反省懺悔がなく、やがて同じ誤りを繰り返すことは明白であるから、今のうちに断固として学会を処罰すべきだ」とまで決めつけるのは、どうかと思います。
  といいますのは、学会員の間に反省悔悟が徹底しておらぬとはいえ、いちおう学会執行部としては公式に宗門に陳謝し「誤りを改めていく」旨を誓って今日に至っているからです。
  後は、学会執行部の懺悔の志が本心からのものであるか、否かという問題になってきますが、人の心の中のことを凡夫が確答できよう筈(はず)もなく、真実をお見通しなのは御本尊の御仏智だけてあります。

信仰の根本は仏智を信ずる

第九世日有上人の『化儀抄』には、
  「同朋(どうほう)門徒中に真俗(しんぞく)の人を師範(しはん)に訴う時、ささえらるる人、起請(きしょう)を以って陳法(ちんぽう)する時は、免許を蒙(こうむ)るなり、然(しか)るに支(ささ)えつる輩(やから)は誤りなり、仍(よ)って不審を蒙る間、是(こ)れも又起請を以って堅く支えらるる時は、両方且(しばら)く同心なきなり、何(いず)れも起請なる故に仏意(ぶっち)計り難し、失(あやまち)に依るべきか云云」(聖典974㌻)
すなわち、
  「同門の中で、僧侶や信徒を何らかのことで師匠(御法主上人)の方へ訴えた場合、訴えられた側が、仏前に誓って偽わりのない起請をもって、事実そのようなことがない旨を師匠に誓うならば、その者は処分されることなく許される。そうすると、訴えた側が間違っていたのかということになって、他の者からいぶかしく思われるが、こちら側もまた起請をもって訴えに誤りがない旨を誓うならば、主張が相対立することになる。この場合、双方とも起請をもって仏様に誓って言い張っているのだから、もはや御仏意にお任せする以外にないのである。さすれば、いずれか一方の誤りが(いずれか一方に仏罰が)顕われ、明らかに裁断されるのである」
と仰せであります。
  御先師日達上人が、「学会を受け入れつつ、今後を見守っていく」と仰せられ、覚醒運動の中止を命ぜられたのも、また現御法主日顕上人猊下が御先師の意志を継承せられたのも、推するも恐れながら、御仏智にすべてをお任せするという、日有上人御指南に基づかれた正当な御裁定であると拝するものであります。
  ゆえに日顕上人猊下は
  「私は、皆さんに〝仏智〟ということを信じていただきたいと思います。……この仏智ということは、凡智・凡見(ぼんけん)で伺い知れないのが仏智なのであり、そこに仏法における、信解の難しさがあるのであります。……日蓮正宗の歴史において、そこにさまざまの形はあったとしても、一貫して流れる〝仏智〟というものを、お互いに信ずることが信仰の根本であると思います。それを忘れたならば、宗門の僧侶ではありません」(昭和55年7月4目のお言葉)
と仰せられ、かつまた、
  「私は、今日このところにおいて〝一切を収める(覚醒運動を終結する)べきである〟と、皆さんにはっきり申し伝えるものであります」 (同お言葉)
  「もしも(今後)信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよいということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、改めて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。……創価学会が本当に御戒壇様から離れ、本宗から離れて、仮りに〝お光さん〟のようなものを作り出して、それを信仰するということになったならば、そのときこそ断固として折伏すればよい」(昭和54年10月10日の御言葉)
等々と仰せられています。

人智を基に宗門を誹謗

御仏智を信じ、一切をお任せする――まことに宗教的な解決法と申せますが、これに対し、あくまでも学会報行部の内心を推断し、処罰すべきであると主張し続けているのが今日の正信会路線であり、これは御仏智よりも、むしろ人智を基にした行動といわざるをえません。
  しかして、自らの主義主張を押し通すべく、宗門・御法主上人をも誹謗し、あくまでも改める意志を持たぬばかりか、その誹謗はエスカレートして止まるところを知らぬわけですから、まさに五十九世日亨上人御指南のごとく、
  「たびたび訓誠(くんかい)せられても、ガンとして改心せぬのが大謗法」(『日蓮正宗綱要』より) であって、ついに宗門より懲戒処分が発せられるに至ったのであります

眼前せる謗法は厳しく破折

また、誤解なきよう付け加えておきますが、覚醒運動の終結といいましても、それはあくまでも
  「いまだに『学会は大謗法の団体である』とするのは大きな誤り」(日顕上人猊下御親書『宗内檀徒の皆さんへ』)
であるとの意でありまして、学会総体を「謗法の団体」と決めつけて責めるような運動を終結する、ということであります。
  もし万が一、謗法を謗法と気付かず、いまだに52年当時のような会長本仏論、血脈否定、僧俗同格論などを主張する会員や、「学会には一点の誤りもなかった」などといって、6・30、11・7、5・3等での反省を無にするような言動を見聞したときには、すでに
  「眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきであり云々」
との院達も発せられているわけですし、また日顕上人猊下も
  「〝創価学会を攻撃、誹謗する僧侶達が処分されたのは、創価学会に誤りがなかった証左であり、指導者にも誤りなどはなかったのである〟などといってはなりません」 (『暁鐘』第35号)
  「それぞれのところで何かがあったら、すぐに支院長に知らせる。支院長はまた、地方協議会において地元の人々によく注意する、と同時に宗務院にも連絡をする。それらを全部吸収して、宗務院はまた、これでもか、これでもかと、創価学会の中心者である大幹部に対して指示してまいります。そして、根本的になおしていくべきところは、なおしていかせようではありませんか」(昭和55年7月4日のお言葉)
等と仰せられているわけですから、そのつど、そのつどに厳然(げんぜん)と破折・善導し、宗務院に報告申し上げていけばよいのであります。
  こうした総本山の方針が、正信会でいうような「謗法を容認している」ことになどなろう筈もな。く、むしろ、御仏智への〝信〟を根本にして、眼前せる謗法は破折していくという、正当な解決法であると拝信する次第です。
  したがって、「せっかく進めてきた運動を止めることはできない」とか、「完全勝利して殊勲者と認められなければ気が済まない」あるいは「学会を完全に屈伏せしめなければ気が収まらない」 「ここまで激しく学会を呵責してきたのだから今さら引っ込みがつかない」等々といった不純な執着心がないのでしたら、ここはやはり小異を捨てて大同につく潔さをもって、宗門のもとに一結すべきでありましょう。

師弟子の秩序を守って

なお、最後になりましたが、本宗の信仰は、本師(大聖人、日興上人以来御歴代上人)――手続(てつぎ)の師(直接の師たる末寺御住職)――信徒という、師弟の筋目に則った信仰であり、これを破り逸脱するところから種々の誤りが生ずるものといえます。
  ゆえに日興上人は、『佐渡国法華講衆御返事』に
  「この法門は、師弟子を正して仏に成り候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。うちこしうちこし直(じき)の御弟子と申す輩(やから)が、聖人の御時も候いし間、本弟子六人を定めおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人謗法にて候也」 (歴代法主全書1巻83㌻)
と、また六十五世日淳上人は、
  「その後(大聖人の御入滅後)のことは、日興上人を師と仰ぎ、師弟相対して相承し給い、大衆は各々また師弟相対して相承していくのが仏法の道である。内証の上には大聖人の御弟子であることはもちろんである。といって内証(ないしょう)のみに執して(いくのでなく)、師弟の関係を整へることがもっとも大事であって、これを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起こってくるのである」 (日淳上人全集1325㌻)
と、いずれも師弟の筋目を整えるべきことの大切さ、また師弟の筋目を無視するところに魔の所行が起きることを厳しく御指南あそばされているのです。
  しかるを、正信会なる団体を組織し、そのなかに会長等の役員を置いて指導系統のようなものを作りますと、自覚の有無に関わらず、自ずと本宗の秩序(師弟の筋目)と異なる別個の師弟の道ができあがってまいります。
  ここに、すでに宗門との対立や、種々の誤りを生みだす温床があるのではないでしょうか。
  むろん、これは〝信徒の全国組織のあり方〟にも関連する問題であり、さらに考えねばならぬ点は多いと思いますが、ともかく今日のように変質してしまった覚醒運動を蘇生するためには、これまで述べてきたような一部の方々の狙いと、運動の自己矛盾を明らかにすることはもとより、まず正信会なる組織を解消することが不可欠な要件であると考えます。
  そして、宗門の師弟の筋目の中に立ち還って、それぞれの立場で、眼前にした謗法を破折・善導しきっていくならば、創価学会の体質改善も本当に徹底していくのではないか、と思うのであります。
  分も弁えぬ意見を述べてしまいましたが、要は、一日も早く宗内が穏やかになってほしい、との願いと御理解いただけたら幸いです。
  以上、〝正信覚醒運動の変遷〟と題して、現今の問題につき縷々(るる)述べてまいりましたが、読者諸賢の御批判・倒叱正のほど、よろしくお願い申し上げて擱筆(かくひつ)いたします。