妙観講の進むべき道 (平成十七年八月二十八日 ))
 妙観講は、何といっても行学の中心である折伏行ということに対して、大聖人様そして御先師の御指南を深く体して実践しよう、という講中であり、私はいつも、その顕著な姿を本当に喜び、かつまた、期待しておる次第であります。
 皆さん方の折伏成果も、年々増加されて、今日、一万世帯を超えるような人数になっておるということは、本当に喜ばしいかぎりと思います。
 しかし、何といっても、このように前進するところには、必然的に障害や魔が起こってくるものでありますが、それをさらに乗り越えて、いよいよ妙観講の目的とするところの宗門外護、ひいては一閻浮提広宣流布のために、今後とも精進されんことを、私は心から念ずる次第であります。
 これから、いよいよ皆さんが異体同心の信心をもって、妙観講の中における団結を計っていくところに、必ず、また、未来がさらに大きく開かれるということを、私は、確信しております。
 どうぞ、今後もご精進くださいますよう、心からお祈りする次第です。  なお、指導教師から聞くところによりますと、入講してきた講員の中に、「妙観講は謗法厳誡ということをやかましく言ったり、折伏しなければ与同罪になると言うから、窮屈で嫌だ。同じ日蓮正宗なら、もっと楽に信心していける所の方がいい」といって、勝手に他へ移籍してしまった講員がある、ということです。
 また、これと関連しますが、他の寺院講中と妙観講の在り方に違いがあるということで、妙観講が浮き上がっているというか、果ては「妙観講は今に創価学会のようになる」などと、本気で考えている人もいるのです。もちろん、妙観講の在り方は創価学会などというものとは根本的に違いますから、私はその人に「そういうことは絶対にない」と言っておきました。
 こういった、他の寺院講中と妙観講の在り方の違いについて、私の考えを少々申し上げておきます。
 私は登座以来、『祖道の恢復』『異体同心の確立』『広布への前進』という三つの基本方針を打ち出してきました。そして、私が宗門全体を見て、統率してくる中で、この三つを本当に顕著に実践しているのが妙観講である、と私は思っています。
 今後、宗門において、どのような変化があろうと、この基本方針が変わることはありませんし、妙観講の在り方が云々されることは絶対にありません。
 こうした方向を、私は身を挺して保っていきますので、皆様も、これまでどおり貫いていってもらえばよい、と思うのであります。
 その上で、最初の、窮屈になって迷いを生ずる講員が出てくる、という点ですが、勝手に出ていってしまうのは、その人の信心ですから仕方ないとして、「やはり、我々は大聖人様の御教えを基準として、謗法厳誡で、折伏第一に進んでいく講中が一番よいのだ」ということを、講員の皆がよく理解し、自覚していくように、指導し、育てていってください。
 それから、妙観講の在り方が他の寺院講中と比べて浮き上がっている、という事ですが、そういう見方をする人もあると思いますが、それは、日蓮正宗としての中心の在り方から見たらどうか、といえば、その本当の正しい在り方から妙観講が外れている、などということは絶対にない。むしろ、妙観講は、本当にきちんと正しい在り方を実践しております。
 ただ、全国の寺院の法華講には、どうしても、成り立ちからくる違いというものがあります。
 創価学会の問題が起きる前、法華講の在る寺院は、全寺院の四〇パーセント程しかなく、それから急速な勢いで、全ての寺院に法華講を作ってきました。
 そうした中には、何年経っても折伏ができない講中もあれば、信徒が減っているから、ということで一日中お寺の門が閉まっているようなところもある。いろいろな差別があるわけです。
 また、昔から続いている寺院講中の中には、自分のお寺をしっかり護っている、ということで満足し、その殻の中に入ってしまって、本当に広宣流布のために進む、という心になれないところもあります。
 このように、全国の寺院講中にもいろいろな差別があるわけですが、現在、これらを、宗門として一致団結して、正法正義の信行と広宣流布に邁進する、という方向へ、宗務院が中心となって全国を廻って指導しているわけであります。
 そうした中で妙観講は、講中の在り方や折伏の姿において、最も前進している講中であり、新しい意味での、法華講の在るべき姿がそこに顕われております。
 これを外側から見て、他と違っているといって、いろいろな心から批判する人もいるかもしれませんが、逆に、「これこそ立派な講中である、よくやっている」との、客観的な評価をしている人達もいる筈です。
 そういうわけですから、あなた方、妙観講の在り方が浮いてしまっているのではなく、むしろ、一番基本の正しい在り方を徹底して行なっているのが妙観講なのだ、という確信をもって邁進していってもらいたい、と思うのであります。