邪宗の害毒に煩悶してきた人生 正法の功徳で不思議な御加護が!

第36回総会より
森安勤さん

 私達一家は、平成22年10月に、川元班長の折伏により創価学会を脱会して妙観講に入講しました。今年で四年目になります。
  もともと私は、昭和五十年に創価学会を通じて入信しました。
  その後、昭和五十五年に結婚をし、それを機に妻を入信に導くなど、信心に励んだ時期もありましたが、仕事の忙しさから次第に信心から遠のいてしまいました。
  一方、妻の方は、私とは逆に、学会活動にのめり込むようになっていったのです。
  その後、創価学会は日蓮正宗からも破門され、大謗法団体となったわけですが、信仰そのものから遠のいていた私は、まったく、その状況に気づかずにいました。
  そのような状況の中で、あろうことか我が家の御本尊様が、いつの間にか学会版のニセ本尊に交換されてしまったのです。

  今振り返ってみると、その頃から、家庭内にさまざまな問題が起きるようになり、家族もバラバラになっていきました。そして、ニセ本尊に交換して七年目の平成十九年五月、恐ろしい罰が現われました。熱心に学会活動をしていた妻が、脳溢血で倒れてしまったのです。
 この事態に、訳がわからなかった私は、きっと自分が信心を怠けてお題目を上げていなかったせいだと思い、ニセ本尊に向かって、日々、一生懸命にお題目を唱えて妻の回復を祈念するようになりました。 
 すると妻は、懸命なリハビリによって、一旦は回復したにもかかわらず、その二年後に二度目の脳溢血を起こしてしまったのです。この時は前よりも重篤で、命だけは取り止めたものの、妻は、歩くことも、普通に話すこともできない身体になってしまいました。そして、時間の経過とともに、骨はボロボロになり、筋力も衰えていきました。

  そのような状況にあった平成二十二年十月、妻の友人だった川元かよ子班長が宮城一富士班長と共に、我が家を訪問してこられました。お二人から創価学会の誤りについて教えてもらい、我が家の仏壇の中を確認してもらったところ、ニセ本尊に替えられていたことがわかったのです。
 まさか御本尊様がすり替えられていたなどと、夢にも思っていなかった私は、本当にショックでした。そして、ソファーに横になっている妻に「御本尊様がニセモノじゃ、いくら祈っても病気が良くなるはずがなかった。学会を辞めて、本来の正しい信心に戻ろう」と言いました。妻も素直にうなずき、次の日に、二人でさっそく勧誡を受けました。(大拍手)
 すると、その直後に、行方不明になっていた次男・哲也の居所がわかる、という功徳をいただき、一週間の間に、長男、長女、次男が次々と勧誡を受け、家族皆で日蓮正宗に戻ることができました。(大拍手)
こうして、バラバラになった家族が、御本尊様のもとで再び一つになれた事に、妻は本当に喜んで涙を流し、出ない声を振り絞ってお題目を唱えるようになったのです。

  さて、勧誡を受けた後、宮城班長と川元班長が毎日のように勤行に来てくれたことから、私達は、妙観講の会合にも参加し、少しずつ折伏もさせていただくようになりました。そのような中、次男・哲也が交際していた彩華さんが学会員であることがわかり、折伏したところ帰伏し、彩華さんの娘二人も御授戒を受けることができました。(大拍手)
このようにして、正しい信仰に励むようになったところ、その功徳により、妻がかかえていた糖尿病をはじめとするたくさんの病気が、特別の治療をしたわけでもないのに、どんどん正常値に近づいて、病状が改善されていったのです。
また私の家には、その他にも、経済的な問題や他人とのトラブルなど、頭を悩ませる問題がいろいろあったのですが、それも、わずか一年の間で、思いもかけない方向に解決してしまいました。
 こうした現証に、私は御本尊様の凄い御力を確信し、いよいよ真剣に勤行・唱題に励み、会合に参加し、時間をひねり出しては折伏をさせていただくようになりました。
 御本尊様に唱題していると、あまりの有り難さに涙が溢れるとともに、この有り難い信心を見失って退転していたことや、その間に御本尊様をすり替えられてしまったことが後悔されてならず、「自分の責任だ。自分が信心を失ったばかりに、妻をこのような体にしてしまったのだ」と、御宝前で泣きじゃくってお詫びしました。

  また、話は前後しますが、私は学会時代には一度しか総本山に参詣したことがなく、妻に至っては一度としてお登山したことがありませんでした。
 妙観講の中で、大御本尊様の絶対の功徳と、猊下様のお徳を教えていただくにつけ、家族皆でお登山したい、車イス生活になった妻も、何とかして連れて行ってあげたい、と願うようになりました。
 そして、三年前に、レンタカーを借りて初めてお登山して以来、時間をつくっては家族で総本山に参詣するようになりました。
 福岡から総本山までは、往復二千キロを超す道のりです。ワゴン車の荷台に布団を敷き、そこに妻を横たえて総本山を目指しました。まる二日、ほとんど走り通しの道中は、妻にとっては厳しい道のりだったと思います。途中で熱を出したり、血圧が上がって、苦しむこともありました。しかし、それでも妻は、毎回、願ってお登山しました。
こうして、妻の信心はどんどん深まり、うまく話せない口を使って、お見舞いに来てくれた人や、学会時代に入会させてしまった友人達を折伏するようになりました。
 また、こうした妻の姿や、御本尊様の有り難い功徳を目の当たりにして、学会時代には、信心を嫌って仏壇の前を素通りしていた長女の陽子も、友人達を折伏したり、地域の学会員を探しては折伏に回るようになりました。

そのような中、一昨年の第34回総会に参加して帰ってきた翌日のこと、妻が高熱を出して、緊急入院してしまったのです。
 総会の直後だったので、疲れが出たのだろうと思っていたのですが、検査の結果、思ってもいなかった病名を告げられました。妻は、多発性骨髄腫のベンズジョーンズ型という、骨のガンにかかっていたのです。すでに末期になっており、余命はわずか一ヶ月と告げられました。しかも、発病したのは、おそらく二十五年くらい前だろう、というではありませんか。
 25年前と言えば、妻が熱心に学会活動をしていた頃です。この病名を告げられた時、私は、ただただ学会に付けてしまった妻に申し訳がなく、大御本尊様にお詫びして、何としても妻の病気を治していただこうと思いました。
そして、さっそくお登山する予定を組んでいたところ、心配した中林支部長が御秘符を申請してくださった上、支部長御自身も東京から参詣して、共に大御本尊様に妻の病気平癒を御祈念してくださったのです。そして御開扉の後、理境坊奉天出張所で御秘符を服させていただくことができました。
  その結果、有り難くも妻の容態は回復しはじめ、余命一ヶ月だったはずが、なんと二ヶ月後には退院するまでに回復してしまったのです。(大拍手)

  その後、妻はケアハウスに入所しましたが、一週間に一回は自宅に戻って、講中の会合にも参加していきました。
そのような中で、妻は、まだ未入信だった自分の母親を、佐藤部長に手伝っていただいて折伏しました。なかなか決定しない母親に、最後は妻が声を降り絞って「お母さん、一緒に信心してほしい。一緒にやろう」と訴えました。そして、母も涙を流して入信決定したのです。
 その頃には、妻は喉の筋力まで弱ってきて流動食となっていましたが、ほとんど痛みも苦しみも無く、これまでにないほど穏やかな日々を過ごしていました。
 そんな中、昨年四月には妙観講総会を控えて、長女・陽子が難病である成人スチル病にかかった上、血液にも異常が出て悪性リンパ腫の一歩手前という、大変な事態に陥りました。医師からは「遠方への旅行は命の危険があるから許可できない」と強硬に制止されましたが、日頃、困難な中をお登山していた母親の姿を見ていた娘は、この病魔に屈することなく、医師を説得して、入院中の病院から命がけでお登山し、第35回総会に参加しました。そして、下山してから病院に戻って検査してみたところ、なんと血液の異常は解消し、スチル病も劇的に快方に向かう、という大功徳をいただくことができたのです。(大拍手)

  この大現証を目の当たりにして、私達家族の御本尊様に対する信心はいっそう深まりました。
  その後、七月に入って、また家族揃って御登山しましたが、その時の妻は本当に血色も良くなり、顔立ちも格段に整って、表情まで豊かになっていました。
  後から聞いた話ですが、そのとき支部長は、あまりに綺麗になった妻の様子に驚いて、講頭に報告したところ、講頭から「それは、もしかすると、身体が臨終の準備を始めているのかもしれない」と、不思議な事を言われたそうです。この講頭の言葉に、支部長は、妻が、自分の母親と子供達全員を信心に導いて、すでに為すべき事を果たし終えている事に思い至り、心の中で覚悟を決めて妻の成仏を願い唱題してくださった、ということでした。
それから一ヶ月余りが経過した昨年九月、妻は高熱が続いて、再入院となりました。熱の原因は多発性骨髄腫によるものだろう、ということでした。

  病院では、一年前、すでに多発性骨髄腫の末期だったことを挙げて、「あの状態から一年も延命していること自体、奇跡としか言いようがありません。それに、普通なら激痛があって、モルヒネを使っても七転八倒するはずなのに、奥さんはほとんど痛みも訴えていない。このような事は、ありえない事です」と言っていました。
多発性骨髄腫という病気は、最後には癌が神経にまで到達して、脳も穴だらけの状態となり、耐えがたい激痛に襲われることになるのですが、妻の場合、記憶も明瞭で、苦しむ事もなく、医師も「脳がやられていないのが、本当に不思議だ」と驚いていました。
 とはいえ、ここまで延命を重ねてきた妻の身体は、もう限界に達しており、最期の時が近付いてきていました。

九月十四日、再度、御秘符をいただけることとなり、総本山に参詣していた宮城淳班長が預かって届けてくれ、翌十五日早朝、妻に服させる事ができました。
 この日は折伏活動期間でもあり、同志の皆さんは妻に功徳を回そうと一丸となって折伏をし、私達家族は妻の耳元で懸命に唱題していきました。
 そのような中、翌十六日午後二時過ぎ、妻の血圧が除々に低下し始めたのです。
 宮城班長、川元班長達が駆けつけて、皆で唱題していきました。東京の本部でも、中林支部長をはじめとする皆さんが唱題してくだっていると聞き、本当に心強く有り難い思いでした。
その中で、妻の血圧はさらに下がり、呼吸も弱くなっていき、私は主治医に呼ばれて、最期の延命処置について判断を求められました。

  私は、妻が苦しんだり、身体を損傷してしまうような処置を一切お断わりして、自然な形で見送ることにしました。こうして、十七日午前一時五分、皆が唱題する中、妻は静かに臨終を迎えました。
私は、『臨終の作法』で学んだように、妻の耳元で「やっちゃん、ただ今臨終ですよ。大聖人様が迎えに来られますよ」と告げました。
 本来なら、激しい痛みを和らげるためにモルヒネを大量に使わなければならず、その副作用で意識もなくなって死に至るはずのところ、妻は最後まで全く苦しむことがありませんでした。
 その上、妻の母や子供達、孫達全員が立ち合って、皆でお題目を唱えて見送ることができたことに、私は何ともいえない安堵の想いに包まれていました。
 死後数時間は、命がそこに留まっており、神経も鋭くなっているため、むやみに遺体に触れると耐えがたい痛みを感じる、と聞いていましたので、私は、病院では妻の身体を拭いてもらうだけにとどめ、その他一切の処置をお断わりして、妻を自宅の御本尊様の御もとに連れ帰りました。
 自宅では、講中の皆さんが妻を待っていてくださり、布団に寝かされた妻の顔を見て、本当に驚いていました。

 日蓮大聖人様は、
「人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引の石の如し。善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、軟らかなる事兜羅綿の如し」
と仰せですが、臨終を迎えた妻は、瞳が下を向いて、とてもきれいな半眼半口になっていました。また、生前は色黒で、荒れ肌だったのが、本当にきれいな色白の肌になっていたのです。手足のむくみも、ほとんどなくなっていました。
この状態を見て、私は、死んだ後も生命は存在しており、妻の生命は本当に安楽な幸福境界を得たのだ、と確信できました。そして、本当に成仏できた場合は、死後硬直も起こらないし、腐敗臭すら出ない、と教わっていましたので、私は葬儀屋の勧めるドライアイスも死化粧も断わって、妻の枕元で真剣に唱題していきました。
すると、翌日、お通夜が終わる頃には、少し残っていたむくみも完全に引いて、身体はさらに柔らかくなっており、むろん臭い一つなく、下唇の内側の内出血も跡形もなく消えて、まるで微笑んでいるかのようでした。

  私は思わず妻に、「やっちゃん、良かったねぇ。本当に良かったねぇ」と話しかけていました。
 そして、さらに途切れることなくお題目を唱え続けて、告別式を迎えました。
 正宗の御僧侶に葬儀を執行していただいた上、妻の成仏を心から願う多くの人達に見送っていただき、妻は本当に成仏させていただけたのだ、なんと有り難いことか、と思いました。
告別式が終わり、斎場スタッフが棺を持ち上げたところ、二人で軽々と持ちあがりました。妻の遺体はそれほど軽かったのです。まさに「軽き事鵞毛の如し」との御金言どおりでした。
 その後、私は、火葬の後にも、仏法の凄さを目の当たりにすることとなりました。
すでにお話してきたとおり、妻は多発性骨髄腫という骨のガンによって重い骨粗鬆症になっていました。ですから私は、もろくなって、粉々になった遺骨に対面するものとばかり思っていました。
 ところが、火葬された妻の遺骨は、まるで標本のようにきれいな状態で出てきたではありませんか。頭の骨から、両手・両足の骨に至るまで、真っ白で硬く、重く、しっかりしていました。
 宮城一富士班長が驚いて、「背骨が完璧に近いくらい残っていて、まるで珊瑚のようにきれい。こんなきれいな遺骨は初めて」と言い、妻の病気のことを知らない火葬場の人までもが「五十四歳にしては、若々しいきれいな骨ですね」と感心していました。
 妻の葬儀は、本当に感激・感動の連続でした。
 私達家族は、日蓮正宗に帰伏してからの四年間というもの、本当にたくさんの功徳を頂戴し、また御本尊様に守っていただきましたが、その中でも、妻の成仏を叶えていただけた事は、何にも勝る最大最高の大功徳だった、と確信するものであります。
 この御本尊様の大恩を忘れず、これからは、唱題を根本に、亡き妻の分も折伏育成に励んで御奉公してまいります。
ありがとうございました。(大拍手)