脳性小児麻痺による苦悩の日々を超克

第37回総会より
小栗 香 さん

  本日は、御本尊様の功徳により、脳性小児麻痺(まひ)を克服してきた体験を発表させていただきます。
 私の家の宗旨は浄土真宗で、父は念仏の寺に多額の寄付をしていたばかりか、それ以外にも伊勢神宮や毘沙門天などに熱心に参拝していました。そのような邪宗信仰の害毒によるものでしょう、父は金銭感覚が麻痺して、湯水のようにお金を遊びに使っていたそうです。

そして、母が私をみごもって妊娠八ヶ月になった時、遊ぶお金を持ち出そうとした父が、母とケンカになり、狂乱して母のお腹を蹴ったことから、母は破水してしまったのです。
すぐに母は病院に運ばれましたが、母子共に危ない状態だったため、母体の命を優先に緊急処置が行なわれ、「まず助からないだろう」とされた私は、器具を使って母親の胎内から取り出されました。その時、父親は、棺桶代わりのミカン箱を用意していた、とのことです。

取り出された時の私の大きさは、体重千グラム未満、頭の大きさはミカンほどで、腕は大人の小指の太さ、足は親指の太さという、超未熟児でしたが、何とか一命は取り止めました。そして、そのまま保育器に入れられ、二千八百グラムになるまで、その中で育てられました。
しかし、その時はわかっていませんでしたが、私は母の胎内で受けた父からの暴力によって脳に損傷を受け、さらには股関節脱臼になっていたのです。

 そのため、生まれて二年が過ぎても寝たきりで、立つことも歩くこともできない状況が続きました。五歳になった頃、医者の診察により、ようやく股関節が外れていることと、重い脳性小児麻痺であることが分かったのです。
脳性小児麻痺とは、脳が損傷を受けて起きる障害で、一生にわたって治ることがなく、運動機能障害や、てんかん、知的障害、言語障害など、さまざまな症状を伴います。
  そして、二次障害といって、二十歳から三十歳の成人期に入ると、脊柱側弯症(せきついそくわんしょう)や胸部変形などを起こして、徐々に体が動かしにくくなったり、呼吸障害を起こし、状態がどんどん悪化していって、ついには車イスや寝たきりの生活になってしまうことが多いのです。
  このような状態であることが分かった私は、義肢器具を足に付けて保育園に行くことになりました。
義肢器具は重く、膝下まであるような大きさで、赤い色の、とても目立つものでした。そのような装具をつけて、不自由に歩く私の姿を見た周りの人の中には、次第に私を名前で呼ばず、「チンバ」と呼ぶ人も現われてきました。
  幼なかった私にとって、本当に死んでしまいたいほど辛い日々でした。

やがて七歳になった私は、養護学校に入園することになり、両親と離れての生活が始まりました。
  この、小学一年から中学三年までの団体生活も、すごく辛いもので、朝は起床のための音楽から始まり、布団は決められた畳み方でキチンと畳み、朝食の配膳、後片付け、掃除と続きます。学校から帰ると、検温をして夕食、その後、入浴を三十分以内で済ませ、消灯する時には、シーネと呼ばれる装具と、足首に付けて引っ張る片足5キログラムの重りを装着して寝るのです。
  夜は、脱走者がいないか、看護婦が見回りをしており、家に帰りたくても帰れず、家への電話も制限されていました。 実家から電話が掛かってくるのを、指折り数えて待っていたのを思い出します。

こうして辛い団体生活を終えましたが、私の障害はきわめて重く、体の発達も左右が違っていき、手足の長さも太さも、左右がLサイズとSサイズくらい違ってしまい、普通に歩くことができないのです。
  医者からは、「早ければ二十歳を過ぎたころから二次障害が始まり、脊柱の痛み、手足のしびれ、心臓機能の異常、呼吸障害が起こって、いずれ車イスが必要になり、寝たきりになる」との宣告を受けました。
  そのために私は、すがるような思いで、毎月、体が良くなることを願って、神社・仏閣を数限りなく回って参拝し、新興宗教にも入会しました。

しかし、当然のことながら良くなる兆しなど全くなく、二十歳を過ぎたころから体調が崩れだし、背中の痛みで寝ることもできなくなるなど、恐れていた二次障害が次第に起きてきたのです。
  そして平成八年頃には、トイレに行くのがやっとの、本当の寝たきり状態となり、絶望の淵に立たされました。毎日、天井をめながら、私はこのまま廃人になってしまうのだ、と思いました。
  その後、いったん足の手術を受けて、不自由ながらも、杖をついて少し歩けるようになりましたが、それも一時的なもので、やがては再び歩けなくなることを覚悟しなくてはなりませんでした。
  平成十三年には、もと学会員であった現在の主人と結婚しましたが、結婚したからといって、私の障害が良くなるわけでもなく、私はもう、このような辛い人生に耐えられなくなっていきました。

そのような状況にあった平成十七年の六月、私は、飲食店を経営していた妙観講の石田延子班長と知り合い、折伏を受けました。そして、翌月、理境坊に参詣して、夫と共に日蓮正宗に入信することができたのです。(大拍手)
  私はその時以来、「来世、生まれ変わったら、今度は健康な体で生まれてきたい」と願い、これまでの苦しみ、悩みを思い返しては、絶対に境涯を変えたいという一心で、信心に励むようになりました。
  まだ、足腰が痛んで普通に歩くことができず、体をまっすぐにして正座する事も辛い状態でしたが、元朝勤行をはじめ月例御講、御虫払い、寛師会、御大会と、許されるお登山には全て丑寅勤行から参詣させていただいてきました。講中の会合にも、欠かさず参加させていただきました。
  そして、その中で教えていただいたとおり、罪障消滅して幸せになるためには折伏しかない、と確信し、学会員をはじめ顕正会、正信会、そして家族、親戚、友人と、縁ある人に片っ端から声をかけ、これまでに六百人ほどを折伏し、そのうち四十人ほどを入信・入講に導くことができました。(大拍手)

すると、障害を持った私の体に、御本尊様の功徳は厳然として現われたのです。
  それにハッキリと気付いたのは、入信から三年目のことでした。ある会社の社長に久しぶりに会ったところ、突然「あれっ?」と言われたのです。
  どうしたのかと思って尋ねると、私の歩き方が「以前と違って、ずいぶん良くなっている、足がだいぶ治ってきたんだね」と言われました。
  たしかに言われてみれば、以前は真っすぐに歩くことができず、今にも転ぶのではないかと、周りの人から心配されるような歩き方であったのが、かなり正常な歩き方に変わってきていました。それが、毎日毎日は少しづつの変化でしたが、三年ぶりに会った方にはハッキリと違いが分かったようなのです。

さらに、その後、市役所の障害福祉担当からも、「脳性小児麻痺の二次障害は、もっと進んでいくはずだ。自分は苦しんでいる人を多く見てきたが、小栗さんの場合は全く違う。普通は、だんだん体が後ろに反っていくのだが、小栗さんはそうなっていない」と、不思議そうに言われました。
  複数の人達から指摘され、私は、自分の障害が明らかに快方に向かっていることを実感いたしました。
  しかし、医学的に言えば、脳性小児麻痺の症状は、次第に悪くなっていくことはあっても、絶対に良くなることはありません。これは、まさに日蓮大聖人様が
  「妙とは蘇生の義なり。蘇生と申すはよみがへる義なり」
  と仰せられている、御本尊様の大功徳力であると確信しました。

さらに、その三年後のことです。病院で、MRIの全身写真を撮ったところ、首と腰の軟骨が三か所もれてしまっていることが分かりました。長年にわたる不自然な姿勢での生活により、そのような骨の変形が起きていたのです。
  そういえば、以前は、首や腰がひどく痛みました。その痛みは、骨が潰れていたせいだったのでしょう。しかし、気付いてみれば、今では何の痛みもありません。この私の奇跡とも思える状態を見た主治医は、
「首と腰の軟骨がつぶれているのに、よく、ここまで歩いてくることができましたね!」
と驚いていました。
  思い返せば、幼いころから体が不自由で、常に激しい痛み、苦しみを味わい、そして周りから奇異の目で見られてきた日々は、本当に地獄のようでした。もし、日蓮正宗に入信できていなければ、御本尊様に巡り会っていなければ、私は自殺していたかもしれません。
  しかし今、体も健康になり、保険代理店とマッサージ師の仕事を営み、主人とともに幸せな人生を手に入れることができました。(大拍手)本当に御本尊様のおかげです。
  この、かけがえのない御本尊様の御恩に報いるため、また、この有り難い仏法を世の中の人達に知らせるため、私は、毎日『正しい宗教のすすめ』の小冊子を配り、縁あるほとんどの人に仏法の話をしています。そこまでしても、報いきれないほどの功徳を、御本尊様から頂戴したからです。
  これからも、平成三十三年の宗祖日蓮大聖人御聖誕八百年に向かって、御報恩謝徳のために、折伏に精進してまいります。御静聴ありがとうございました。(大拍手)