医師の父が帰依し成仏を遂げるまで

第39回総会より
田中 隆 さん

 私は、今から二十九年前の昭和六十三年、東京の大学に通っていた時に、中学時代の同級生であった桑原さんから折伏され、日蓮正宗に入信いたしました。
  信心を始めてから今日まで、さまざまな形で御本尊様の功徳を体験してきましたが、特に、昨年七月三十日、八十九歳で亡くなった父の臨終を通じて、あらためて御本尊様の偉大な御力を実感させていただきましたので、発表させていただきます。

 私は、折伏を受けるまでは、宗教に対して全く無関心でしたが、「人生上に起こる不幸の根本原因は、正しい仏法に背き、邪宗教に関わることにある」と聞いて、大変、衝撃を受けました。
  といいますのも、私の実家は、父方が何代にもわたって檀家総代を務めてきた曹洞宗の檀家であり、母方は身延の日蓮宗でした。
  そのような家系の我が家には、私の幼い頃から悲惨な出来事が絶えず、私が十五歳の時には、慕っていた兄がバイク事故により二十三歳の若さで死亡し、また、叔父や叔母、いとこ達が、脳卒中や心筋梗塞、結核、癌などで若くして亡くなるという不幸が続いておりました。
  次々と身近な人達の死に直面した私は、人生に対してすっかり悲観的になっていましたが、折伏を受けた際に、これらの不幸の原因が邪宗・謗法にあること、そして、日蓮正宗の信仰によって、それらを乗り越えて必ず幸せになれることを知り、入信を決意したのです。
  それからは、教えられるままに朝夕の勤行をしていったところ、今まで感じたこともない躍動感が生命の奥底から湧き上がってきて、同時に、幼い頃から悩まされていたひどいアトピーが、いつの間にか、すっかり治っていたのです。
  私は、すごい仏法に巡り会えた!という喜びが溢れてきて、会合にも前向きに参加するようになり、入信半年後くらいからは、家族や友人を折伏するようになりました。  すると、弟はすぐに決定し、共に信心を始めることが出来たのですが、母と姉は全く聞く耳をもたず、開業医をしていた父に至っては、宗教は非科学的なもの、と決めつけて、仏法を馬鹿にしてきました。また、周囲の友達からもさんざん悪口を言われました。
  しかし、会合や先輩方から、御金言を通して「折伏ゆえに悪口を言われることによって、生命に刻みつけられた過去の罪障が消えていくのだ」という道理を教えられていましたので、私は、どんなに反対されてもひるまずに折伏を続けていきました。
  すると、さらなる功徳が現われてきたのです。

 当時の私は大学の医学部に通っていたのですが、成績が振るわず悩んでおりました。ところが、折伏を実践しているうちに、ぐんぐんと成績が上がってきて、同級生達からは「何か変わった勉強方法を始めたのか?」などと聞かれるほどでした。
  そして、大学も無事に卒業し、医師となった私は、山形県の病院に勤務した後、父の病院を継ぐために新潟県新発田市の実家に戻りました。
  新潟に帰ってからも、常に「信心根本」を心掛け、新潟の同志の皆さんと共に、親戚や友人、そして地元の学会員や顕正会員を折伏していきました。
  すると、折伏された友人達は遠ざかり、町中では「田中医院は宗教にのめり込んでいる」などと悪口を言われ、一時は辛く感じたこともありましたが、そうした時こそ講中の指導・方針にしがみつく思いで、新潟から総本山へ、東京の本部での会合へと足を運び、また折伏し、と、仏道修行を続けました。

 そのようにしてくるなか、同じ志で信心する良き妻と四人の子供にも恵まれ、病院の評判も上がってきて経営的にも安定し、充実した毎日を送れるようになったのです。
  私はあらためて、大聖人様の御金言にあるとおり、たとえ仏法のために悪口を言われ、一時的に冬のような状態になっても、必ず罪障が消されていき、その過程で一つひとつ幸せを得ていくことができるのだと、深く確信することができました。

 さて、入信から十三年が経った平成十二年秋、私達家族に、大きな転機が訪れました。ずっと仏法を嫌い続けてきた父が、食道癌を発症したのです。
  早期発見でしたが、癌という命に及ぶ病気にショックを受けた母と姉は、これまでの態度を一変させ、父を助けたい一心で、入信することができました。
  しかし、当の父は、食道を全部切除することになっても、相変わらず仏法の話を受け入れようとしませんでした。すると、手術から一年程が経過した頃、手術の合併症で急性膵炎を発症して、物が食べられなくなり、みるみる衰弱してしまったのです。
  父は、それを乗り切ろうと、自分の知り得るかぎりの医療を試みていましたが、どんなに努力をしても病状は悪化の一途をたどり、最後は打つ手がなくなってしまいました。  私は、これが父が信心できる最後の機会かもしれないと思い、渾身の力を込めて父に、  「このままだと栄養失調で死んでしまうかもしれない。信心すれば、必ず治るから、お寺へ行って御本尊様にお願いしよう」 と言いました。すると父は、自分でも限界を感じていたのか、素直にうなずいたのです。
  そこで、さっそく謗法払いをして、地元の実行寺様で御授戒を受けることができました。平成十四年三月、父が七十四歳の時のことでした。(大拍手)

 すると、なんと、炎症は急激に治まって、食事もできるようになり、体力も回復して、医師としての仕事にも復帰することができたのです。
  こうした体験を通じて、父は御本尊様の御力を確信できるようになり、毎年の総会に喜んで登山し、本部講習会や支区座談会などの会合にも自ら積極的に参加するようになりました。また、私達夫婦が、折伏の対象者を家に呼んで話していると、父が自然に折伏に加わって、「私の長男が事故で亡くなったのは邪宗教のせいです。あなたも信心しなければだめです」とはっきりと伝えて、折伏を応援してくれたこともありました。
  このように、父の信心が一歩一歩前進できていることが、私は本当に嬉しく、御本尊様に感謝申し上げました。

 ところが母は、父とは違いました。母は、入信したものの、父の病状が落ち着いてくると、勤行は形ばかりになり、信心よりも謗法の友人のとの付き合いを優先するようになって、折伏に対しては顔をしかめ、「折伏して周りの人から嫌われるくらいなら、臨終の時にどうなってもかまわない」などと、とんでもないことを言うようになったのです。

 日蓮大聖人様は、
  「我が弟子等の中にも信心薄淡き者は臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし。其の時我を恨むべからず」 と仰せられていますが、とうとう、そのとおりのことが、母の身に起きてしまいました。
  平成二十六年十二月、入浴中の母が湯船に沈んで急死してしまったのです。  私は、仏法の因果の厳しさを思い知り、常日頃から講中で学んできたとおり、「仏法にはオマケもゴマカシないのだ。大聖人様の仰せのとおりの信心をしていかなければならないのだ」ということを、痛切に実感いたしました。
  同時に、「父は、この母の突然の死を、いったい、どう受け止めるのだろうか、信心に疑問を持ったりしないだろうか」と心配になりました。しかし、父から出た言葉は、「自分が会合で感動したことをお母さんに伝えても、お母さんは何の反応も示さなかった」「お母さんは、邪宗を悪いと思っていかなった」というものでした。父は、母の信仰の不純さを見抜いており、母の臨終のことで動揺することは一切なかったのです。

 私は、この父の姿を見て、「本部講習会や会合で教えていただいた仏法の道理を、父なりに心に入れているのだ」と感じ、あらためて、講中で常に正しく信心の在り方を教えていただいていることに心から感謝いたしました。

 こうして母の死を乗り越えた私達家族は、共に仏道修行に励み、昨年・平成二十八年を迎えました。
  もうすぐ九十歳に達しようとしている父は、加齢のために徐々に衰弱しており、私達家族は、年初の段階で、父の臨終がそう遠くないことを感じるようになりました。
  だからこそ、残された時間の中で、可能なかぎり一回でも多く登山させてあげよう、と思っていたところ、父も「御登山したい」と言って、新潟からたびたび総本山に参詣させていただきました。
  一回一回の登山に臨むたび、私達家族は、「今回が父にとって最後の登山になるかもしれない」と覚悟して、道中の車の中でも無事を祈って一心に唱題し、父を介護しながら共に登山をさせていただきました。

 そして、昨年五月の「妙観講第三十八回総会並びに総登山」にも登山する予定でいた四月半ばのことです。父が、服用していた薬の副作用で腎炎になり、食事もできなくなるほど衰弱して、地元の病院に入院してしまったのです。
  部長にも連絡し、「これは、総会・総登山に行かせまいとする三障四魔だ」と気づいた私達家族は、小川御住職様に当病平癒の御祈念をお願いし、弟と私とで交代で病院に通って、父と共にベットの横で朝夕の勤行を行ない、「病気が治って、何としても総会に参加できますように」と、必死で御祈念しました。
  御本尊様のおかげで、生命の危機を脱することはできましたが、しかし、全身の筋力低下と体の痛みのため、父は自力では体を動かすことができず、このままでは登山できない状態でした。
  しかし、ここで諦めるわけにはいきません。皆で御本尊様に「父が総会に参加できますように」と真剣に祈り、父とも一緒に勤行を続けていく中で、父の身に不思議なことが起こりました。
  父が、「同じ信心をしている人が入院していて、毎日、大きな声で勤行している」と言うようになったのです。そして、「その人がお題目を唱えているから、自分もお題目を唱えている」というのです。
  最初は本当の話かと思いましたが、実際にはそのような人はおらず、その声は父だけに聞こえていたのです。
  私は、父が一人で心細くなっている時も、御本尊様が声を届けて父の信心を励ましてくださっているのだ、と確信し、御本尊様に心から御礼申し上げました。

 それ以来、父は、次第に健康を取り戻し、車イスでの移動も可能となって、ぎりぎりで主治医から外泊許可をもらうことができ、昨年の総会・総登山に参加することができました。(大拍手)
  父は、感激の中で御開扉を受け、総会でも大歓喜して、無事に下山しました。片道六時間以上の道のりを、ワゴン車で往復したのですから、父にとっては負担が大きく、さぞかし疲れたことだろうと思っていたのですが、病院に帰り着いた父は、病院のスタッフが見違えるほどに顔色も良く元気になっていて、看護師さんに自分が大石寺に参詣したことを嬉しそうに話し、「今度、一緒に行きますか」と折伏していました。

 その後しばらく、父の容態は安定していましたが、総会から二ヶ月ほど経つと、徐々に身体機能が低下していきました。  父は、遠のく意識の中でも、一生懸命に口を動かし、御題目を唱えていました。

 そして、七月三十日、病院に付いていた弟から、父の臨終が迫っているとの連絡がありました。  急いで病院に駆け付け、心電図モニターを見ると、脈拍数、酸素濃度、血圧のいずれも下がってきていて、今度こそ臨終の訪れを覚悟しなければなりませんでした。  私は、臨終正念の教えを思い、けっして動揺することなく、父の成仏のことだけを願っていこうと自分に言い聞かせ、集った家族四人でお題目を唱えました。 それから一時間が経った頃、父の心臓の鼓動が止まり、その直後、三回、大きな呼吸をして、父は臨終を迎えました。私は、臨終に際し、父の耳元で、
  「臨終はただ今です。日蓮大聖人様がお迎えに来られます。南無妙法蓮華経と唱えてください」 と告げました。
  その後、とても不思議なことが起こりました。看取りに来た主治医が臨終を告げた時、すでに亡くなっているはずの父が、一瞬、不安そうな表情を浮かべ、それを見た私が、すかさず父の耳元で、「絶対大丈夫だから」と強い声で告げると、父の顔は、スーッと安心しきった表情になったのです。 私は、この不思議な現証を目(ま)の当(あ)たりにして、これまで教えていただいてきたとおり、たとえ今生の命は終わっても、生命は後生にまでずっと続いていくのだ、ということを、実感として受け止めることができ、「ここで悲しんではいられない。最後まで功徳を廻し、何としても父の成仏を守らなければならない」と、あらためて身が引き締まる思いでした。

 葬儀場に運ばれた父の遺体は、柔らかく、色も白く、穏やかな表情を浮かべていました。
  日程の都合で通夜までは三日もあったのですが、その間もずっと、私達兄弟と妻と子供達、そして支区の皆さん達と、交代で途切れることなくお題目を唱えました。
  真夏の暑い盛りの中、死に化粧もせず、ドライアイスも入れていないというのに、その間も父の遺体は、ずっと、死後硬直もなく柔らかいままで、色も変わらず、また臭いも一切なく、顔は安心して笑っているかのようでした。
  通夜と告別式には、地元の正宗寺院の御住職様が来てくださったのですが、いよいよ出棺の時、父の顔はいちだんとツヤを増してピンクがかり、唇は紅が差したかのように赤く、まるで生きているかのようでした。
  葬儀には、未入信の親戚や病院の従業員、地元の各業界の中心的な人達がたくさん参列してくれたのですが、皆さん、父の姿に驚いておりました。

 日蓮大聖人様は、成仏の相について、
  「善人は設ひ七尺八尺の女人なれども色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、軟らかなる事兜羅綿の如し」 と仰せられていますが、父はまさに、このとおりの相を現じて、霊山へ旅立っていったのだと思い、感無量で、心から御本尊様に御礼申し上げました。
  私は、これら一連の体験を通じて、本当に御本尊様の御力は絶対であり、医学も科学も超えたところにこの仏法があるのだと、心から確信しています。
  今後は、亡き父の分も、仏法を根本とした医師として立派に社会に貢献できるよう、しっかりと仏道修行に励み、精進してまいります!御静聴ありがとうございました。(大拍手)