上場香織 さん
私は今から二十二年前の平成十一年に、何も知らずに大謗法団体の顕正会に入会してしまいました。
以来、顕正会で教えられるまま、日蓮正宗は大聖人の御遺命を曲げた大謗法の宗団であり、大聖人の仏法を正しく実践しているのは顕正会だけだと信じ込んで、活動に狂奔するようになりました。
しかし、取りつかれたように活動する一方、日々の生活には何の歓喜もなく、経済的にも精神的にも行き詰まることばかりでした。
その頃、私は、銀行から融資を受けてスーパーマーケットの経営を始めたのですが、納品業者に騙されて忽ちに経営が破綻し、大きな借金を作ってしまいました。その後、再起をはかって焼肉店、蕎麦屋、鯛焼き屋、健康食品の販売店の経営に着手したのですが、悉く失敗してしまったのです。
それでも顕正会を疑うことなく、活動に明け暮れていった結果、精神が不安定になって、子供達に怒鳴り散らしたり、無気力になって寝込んでしまうようになりました。
そのようなある日のこと、私は、ある出来事から、会長の娘として会内に君臨している浅井昌子の逆鱗に触れてしまったのです。
私は、前々から浅井昌子をはじめとする幹部達の傲慢な言動に疑問をもっていたのですが、ここで直接、理不尽で異常な姿を見せつけられたことから、ついに不信が限界に達してしまいました。足掛け八年、全てを捧げてきたという執着もありましたが、全て振り払って脱会しました。
そして、それから一年後の平成十九年、先に顕正会を脱会して日蓮正宗に帰伏していた友人の折伏によって、子供達三人と共に御授戒を受け、大石寺の塔中坊に所属させていただきました。しかし、もともと正しい信仰の在り方など全く弁えていなかった私は、同志に溶け込むこともできず、やがて一人信心に陥ってしまったのです。
そして悶々としていた平成二十七年、総本山の総一坊で、塔中坊の法華講を対象とした、大草講頭による折伏講習会が開催されました。
顕正会時代に、大草講頭に対する誹謗中傷をさんざん聞かされていた私は、いったい、どのような人なのだろうという興味から参加してみました。
ところが、講習会が始まるや否や、講頭の生命力と確信漲る話に引き込まれ、全身に感動が走るのを覚えたのです。
そして、〝妙観講で信心していきたい〟〝私は、妙観講でなら信心できる〟と思い詰め、妙観講に移籍させていただきたいと、御住職に懇願しました。
何度か窘(たしな)められたのですが、どうしても考えを改めない私に、御住職が「特別なことですからね」と言って許可してくださり、令和元年四月、妙観講に入講させていただいたのです。その時は天にも昇る気持ちでしたが、後になってみれば本当に軽率でした。
私は、自分勝手に移籍を押し通した結果、自分自身の手続ぎの師匠である御住職を捨ててしまったのです。そんなこともわからず、移籍できたことを喜んでいたのでした。
妙観講に入講してしばらく経った時、H幹事が『誠心』を引いて、私の移籍が本来あるべき姿ではなかったことを教えてくださいました。日蓮正宗の信者は、所属寺院の御住職を手続ぎの小師と仰ぎ、師弟関係を定めて信心していかなくてはならない、その小筋を外して、身勝手に寺院を移り変わることは、師を捨てる失にあたり、罪になるのだと。
懇切に説明を受けた私は、自分がしたことに愕然とするばかりでした。顕正会で大謗法の罪障を作った上に、また道を外してしまった。かといって、元の所属寺院に戻るなら、今度は現在の手続ぎの師を捨てることになってしまう——私は血の気が引く思いで、御本尊様にお詫び申し上げました。
それからというもの、ひたすら罪障消滅を願って、日々、勤行唱題に励むとともに、機会のある限り御登山し、講中の行事や会合には欠かさず参加し、折伏を実践して、精いっぱい仏道修行に励んでいきました。
やがて、折伏が進んで眷属が増えたことに伴い、昨年一月に班長の任をいただきました。
そして昨年六月、折伏のために訪問した先で、過去からの罪障が一気に吹き出すかのような事態が起きたのです。
その日、私は娘二人とともに、埼玉県秩父市に住む従兄弟の一家を訪れて折伏をしていました。
話し始めて一時間ほど経った頃だったと思います。
突如として背中に、何とも表現し難い感覚を覚え、同時に全身が重くなって手も上げられなくなりました。そして〝動けない!〟と思った瞬間、今度は耳まで聞こえなくなってしまったのです。
従兄弟の奥さんが看護師だったことから、私の様子に緊急事態であることを察知して、すぐに119番通報してくれました。
搬送された病院では直ちにMRI検査が行なわれたのですが、この時、普通なら引き上げていくはずの救急隊員が、〝脳内出血の疑いあり〟と判断し、手術のできる大学病院に受け入れを打診しながら待機してくれていました。
検査結果はくも膜下出血、命にかかわる事態です。
私は、待機していた救急車で大学病院へと搬送され、緊急手術となりました。
その間、先輩方の迅速な対応によって、小川御住職に御祈念をしていただいた上での手術となりました。
手術は午後七時から始まって翌朝の四時半まで、九時間余りに及びました。脳の真ん中から出血していたため、頭蓋骨の四分の一を外し、脳を掻き分けて損傷部分を見つけ出し、出血した血を吸引し、破裂箇所をクリップで留めてから、頭蓋骨を戻して三十ヶ所あまりをホチキスで留める、という凄まじい大手術となりました。
手術は成功したものの、医師からは「手足の麻痺や言語障害が残る可能性が極めて高い」との説明があったそうです。
しかし、二日が経過して麻酔から覚めた時、私は手足の麻痺も、言語障害も一切なく、手術前後の記憶もしっかり残っていたのです。
〝生きている!〟〝御本尊様が守ってくださったのだ〟と喜びが込み上げ、心から御礼申し上げました。
私は、この出来事を通して、自分自身の罪障の深さを改めて思い知らされるとともに、そのような自分をも助けてくださった御本尊様に心から感謝申し上げました。
また、この間、支部の皆さんが、皆で、手術の成功と回復を御祈念してくださったと聞き、私などのためにと、有り難くて涙が溢れました。
その後、検査によって完治が確認され、術後一ヶ月という速さで退院することができました。
くも膜下出血を起こした場合、五十パーセントの人が亡くなり、生き延びても、多くの人に後遺症が残ります。もし、あの出血が、一人でいた時や、就寝中に起きていたら、と考えると背筋が凍る思いです。
幸いにも私は、看護師をしている人の前で倒れ、救急隊員には最善の手配をしてもらった上、御住職に御祈念していただいて手術となり、講中の皆さんにも唱題していただき、術後にはすみやかに御秘符まで頂戴することができました。
有り難いことがいくつも重なって、九死に一生を得、後遺症も何一つなく、健康を取り戻すことができました。
思えば、H幹事から、身勝手な寺院移籍が罪障になったことを教えてもらえなかったら、罪障消滅を願って真剣に仏道修行に励むこともなく、今回、命を助けていただくこともなかったことでしょう。私は、講中に身をおいて信仰していくことの有り難さを噛みしめました。
さて、その当時、私の班は結成まもなく、何人かの班員さんはいたものの、朝夕の勤行に励み折伏を実践しているのは娘二人と私の三人だけでした。
しかし、これだけの功徳を頂戴しておきながら、そのような事では申し訳ありません。私は退院後、さっそく折伏・育成を進めていきました。
まず、周囲の縁ある人々を精いっぱい折伏すると共に、顕正会員への折伏にも力を入れていきました。
昨年十月のある日、常盤台で顕正会員に声をかけていった時に、たまたま顕正会員に勧誘されている男性を見つけました。追いかけて声をかけたところ、現役の学会員であることがわかったので、創価学会の謗法を話して折伏すると脱会を決意し、翌日、御授戒を受けることができました。帰伏後、速やかに折伏に立ち上がり、すでに二人の友人を入信に導いています。
その後も、徹底的に顕正会員を折伏していきました。
顕正会員達は大勢で屯(たむろ)し、少人数の私達母娘を取り囲んでは、「寄生虫」「ウジムシ」と散々に罵り、悪口を浴びせてきましたが、こんなことで罪障消滅ができるのならと嬉しくなってきます。
こうして折伏に回っていったところ、どんどん班の状況が変わってきました。
退転していた班員さんが一人また一人と、再び信心に立ち上がり、そこに、新たに入信した人達が加わって、班がとても活気づいてきたのです。
そして、今年の五月、私がくも膜下出血で倒れたために折伏が中断していた従兄弟と、ようやく会える運びとなりました。
倒れた時の私の様子を目の当たりにしていた従兄弟夫婦は、私が何の後遺症もなく、むしろ倒れる前より元気な姿で現われたことに、心から喜んでくれました。
とくに、看護師をしている奥さんは、「あり得ない。これが功徳なの?!」と驚き、念願だった従兄弟一家、五人揃っての御授戒が叶いました。
こうして、昨年六月までは、娘達と三人で活動していた私の班でしたが、一年後の今では、たくさんの班員さん達が御本尊様の功徳に目覚め、歓喜をもって皆で折伏に励むようになり、この一年で二十四名の人達が御授戒を受けて入信し、実動の講員は二十四名となりました。
こうして、信心を根本に営む一日一日は、本当に歓喜・感激に溢れ、有り難い限りです。
この御恩を心に刻んで、これからも、折伏・育成に精進し、新参者ではありますが、妙観講としての次なる十四年の御奉公に加えていただく決意です。本当にありがとうございました。(大拍手)