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異流義 正信会を折伏しよう

この論文は、昭和57年当時に執筆されたものです。

異流義と化した正信会の破折

正信会 成立の歴史

正信会(しょうしんかい)は、昭和五十五年から五十七年にかけて日蓮正宗から破門された元僧侶ら(当時、約二百名)と、それに従った檀徒(だんと=元学会員)によって構成される集団である。
正信会が破門に至ったそもそもの発端は、いわゆる〝昭和五十二年路線〟と称される創価学会の第一次教義逸脱問題にあった。
この教義逸脱問題が浮上した際、時の御法主・第六十六世日達上人のもと、全国の僧俗有志が、創価学会の逸脱・謗法を改めさせるために起ち上がった。
その結果、創価学会は大量の脱会者を出し、ついに宗門に対して全面謝罪、昭和五十四年四月には池田大作が会長職を引責辞任するに至った。
これを受けて、同年五月三日、日達上人は〝学会の反省・懺悔(さんげ)を認(みと)め、しばらく学会の様子を見守っていく〟旨を決定され、事態にいちおうの終止符が打たれたのである。

ところが、この日達上人の決定を不服として、それまで「正信覚醒運動」と銘(めい)打って創価学会批判を展開してきた、「活動家僧侶有志」と名乗る僧侶(当時)の一群が、宗門・日達上人に反抗の色を見せ始めた。それが、現在の正信会僧である。
当時の彼らの機関紙には、「あくまでも学会は謗法の団体、無慙(むざん)集団であり、この期(ご)に及んで学会を責めぬ日和見(ひよりみ)主義者は大聖人の弟子にあらず。また学会を責める者を咎(とが)めることは、謗法者を庇(かば)い立てることであるから、かえって謗法になる」(要旨・『継命』第二号) 等といった、日達上人の御指南に背反する檄(げき)が載(の)り、また、これを注意すべく宗門・日達上人が彼らに宛てられた通告に対しては、ただ「拝見致しました」とだけ書いた、無礼きわまりない返書を送り付けたのである。 同年七月、日達上人の御遷化(ごせんげ)により、第六十七世日顕上人が御登座されると、彼らは、模様眺(もようなが)めもあってか、少しの間は静まっていたが、新御法主の方針が日達上人と少しも変わらぬことを知るや、いよいよ正面きって宗門・日顕上人を誹謗(ひぼう)・攻撃しはじめたのである。

日顕上人は、たいへん心を痛められ、再三にわたって彼らを説得されたが、彼らは頑(がん)として随(したが)おうとせず、彼らに従(したが)う多数の檀徒(学会から脱会して寺院信徒となった者)を巧みに煽動(せんどう)して活動を激化していった。そして、昭和五十五年七月には、他の僧俗との立場を区別して「正信会」を自称するようになった。 これでは一宗の統制と秩序がとれなくなるため、昭和五十五年九月、宗門は、やむなく、彼らを懲戒(ちょうかい)するなどして、事態を鎭(しず)めようとした。  が、それに対抗しようとして彼らは、同年末から翌五十六年初めにかけ、〝日達上人から日顕上人への相承(そうじょう)には疑義(ぎぎ)がある。日顕上人は正当な六十七世法主ではない。故に、日顕上人のなした懲戒は無効である〟等と、とんでもない言い掛かりをつけ、あろうことか、宗門・日顕上人を裁判所に訴えるという、およそ宗門人としては考えられない暴挙に出たのである。
これは、宗祖日蓮大聖人・二祖日興上人以来、連綿(れんめん)と続く僧宝(そうぼう)の根本的意義を破失(はしつ)することに通じる、重大な謗法であり、事ここに至って、主謀者五名が昭和五十五年(西暦1980年)十月に擯斥(ひんせき=破門)に処されたのを皮切りに、以後、昭和五十七年九月に至るまでに、考えを改めない二百一名の正信会僧侶が本宗から擯斥されるところとなった。 擯斥された元僧侶らは、住職を務めていた寺院に居座(いすわ)り、また、そこに所属していた檀徒の大半も彼らに従ったのである。
かくて、日蓮正宗宗門とは無縁の集団となった正信会は、当初のうちこそ、学会攻撃や宗門攻撃で気勢をあげていたが、平成三年(西暦1991年)に日蓮正宗が創価学会を破門すると、全く主張の根拠を失い、方向性を見失ったまま、活動は俄(にわ)かに失速。  加えて、総本山を持たず、各寺院横並びの合議制(ごうぎせい)で会を運営してきたために、意見・方針はおろか教義解釈までがバラバラで、内部に深刻な不調和を抱(かか)えつつ、正信会僧の各人はとりあえずの寺院経営に汲々(きゅうきゅう)としているのが現状である。

正信会 本尊と教義

正信会は、破門されてもなお、「日蓮正宗」を僭称(せんしょう)し、「富士門流・日蓮正宗の流れを根本として、日蓮大聖人の教えをそのままに伝えていくのが正信会である」(趣意・正信会のホームページより)と嘯(うそぶ)く。
だが、彼らは、〝日蓮正宗の流れを根本とする〟どころか、破門以降、本宗の伝統法義に次々と異義を差し挟(はさ)み、ついに、日蓮正宗で立てる三宝の悉(ことごと)くを破るに至った。
まず、三宝のうちの僧宝についてであるが、本宗では、大聖人より血脈相承(けちみゃくそうじょう)された二祖日興上人、さらにそれを順次に継承される三祖日目上人以来の御歴代(ごれきだい)上人方を僧宝と仰ぐ。

ところが、正信会は、破門当初に日達上人から日顕上人への継承を否定し、さらにその延長として、 「法主から法主へと伝えられる血脈相承は形式的なものであって、真実の血脈相承というのは、信の一字により、大聖人から正信の僧俗大衆に与えられるものである。したがって、代々の法主の血脈が断絶(だんぜつ)したときには、正信の大衆の中に血脈が保持されるのであり、今日においては、正信会のみに血脈が受け継がれている」 と言い出した。 この正信会の主張は、結局のところ、日興上人以下の御歴代上人方を形式的な僧宝と下し、僧俗大衆(なかんずく今日では正信会)こそが真実の僧宝である、としたのである。

次に彼らは、何としても猊座(げいざ)の権威(けんい)を失わしめんがため、血脈相承の本源である御本仏日蓮大聖人にまで遡(さかのぼ)って、 「鎌倉時代に生まれた〝人間日蓮〟は本仏ではない。〝人間日蓮〟を本仏と立てるから、弘安五年には本仏がお隠れになって、現在は本仏がおられないことになる。そこで〝今日蓮(いまにちれん)〟が必要となって、法主が本仏のごとく崇(あが)められることになるのである。これは根本が間違っており、本来の当家法門では、生身(しょうしん)の大聖人ではなく、大聖人の永遠不滅の魂魄(こんぱく)をもって本仏とするのである」 等の説を構(かま)えた。
本宗においては、当然、生身の日蓮大聖人をそのまま御本仏と仰ぎ奉り、仏宝(ぶっぽう)とするのであるが、正信会は、この義を破失してしまったのである。

こうして仏宝の立て方を誤った正信会は、さらに仏宝と一体の関係にある法宝(ほうぼう)――大御本尊についても、 「ダイナマイト一本で吹っ飛ぶような物が、大聖人の究極の本尊であるわけがない。それは唯物(ゆいぶつ)の次元に堕(だ)した本尊観である。
我々は、色法(しきほう)の御本尊の奥に、眼には見えない御本仏の心法(しんぽう)を拝するのであり、その仏の心法こそが常住不滅の真実の大御本尊である」 と言い出した。 この説が飛び出した当初は、正信会の中でも問題になったようであるが、しかし、一方では、徐々にこれが定説化していったのである。
その証拠に、正信会機関紙の『継命(けいみょう)』平成七年三月一日号に、 「戒壇の大御本尊とは楠板(くすのきいた)の大曼荼羅(だいまんだら)なり、との固定解釈がいまも大手を振ってはいないか。楠板は常住不滅なりや否(いな)や」 との一文が載っている。 ただ、この時点でも、内部には反発があったらしく、その後、釈明記事を出したようであるが、平成十一年には、『継命』の記事中で創価学会による〝大御本尊否定論〟を紹介しながら、読む者を巧(たく)みに大御本尊否定に誘因(ゆういん)しようとしている。つまり、大御本尊否定へ足並みを揃(そろ)えさせようとする、執行部の意図(いと)が見え見えなのである。
以上、述べてきたように、正信会は、日蓮正宗の名を騙(かた)りながら、法門の根本である三宝の立て方すらも本宗から大きく逸脱し、新義を構えているのである。

破折

仏宝破壊を破す 

正信会が主張する、 「鎌倉時代に生まれた〝人間日蓮〟は本仏ではない。〝人間日蓮〟を本仏と立てるから、弘安五年には本仏がお隠れになって、現在は本仏がおられないことになる。(中略)これは根本が間違っており、本来の当家法門では、生身の大聖人ではなく、大聖人の永遠不滅の魂魄をもって本仏とするのである」 等の説であるが、これは、まったく法華経の教えすら弁えていない、初学者並みの妄説である。
大聖人は、 「我等が色心(しきしん)の二法を無常(むじょう)と説くは権教(ごんきょう)なり、常住(じょうじゅう)と説くは法華経なり」(御書1745㌻) 「凡夫の血肉の色心を本有(ほんぬ)と談ずるが故に本門と云ふなり」(御書一八一一㌻)
すなわち、生身の他に永遠の魂魄を考えることは誤った見解であり、法華経では、生身そのものが生死(しょうじ)を繰り返しながら常住する永遠の存在である、と説くのである、と示されている。
したがって、本宗で立てる宗祖本仏義も、こうした法華経の深理(じんり)を踏(ふ)まえ、生身のほかに永遠不滅の魂魄なるものを求めるのではなく、生身の日蓮大聖人をそのまま御本仏と仰ぎ奉るのである。
このことは二十六世日寛上人が、『観心本尊抄』の 「正像に造り画(えが)けども未(いま)だ寿量の仏有(ましま)さず。末法に来入して始めて此の仏像出現せしむべきか」(御書654㌻) の文を解釈して、『末法相応抄』に 「『寿量品の仏』とは即(すなわ)ち是れ文底下種の本仏、久遠元初の自受用身(じじゅゆうしん)なり。既(すで)に是れ自受用身なり、故に亦(また)『仏像』と云うなり。自受用身とは即ち是れ蓮祖聖人なるが故に『出現』と云うなり。(中略)又『仏像』の言未だ必ずしも木絵に限らず、亦生身を以て仏像と名づくるなり。(中略)若し必ず木絵と言わば出現の言恐らくは便ならず、前後の文『本化出現』云云、之れを思い合わすべし云云」(六巻抄一四一㌻) と明確に示されており、これこそが〝本来の当家法門(とうけほうもん)〟なのである。

正信会の主張は、まさに初学者並みの妄説に堕(だ)しており、正しい仏宝(ぶっぽう)の立て方を破失しているのである。 こうして、日蓮大聖人を御本仏と仰ぐ信仰を希薄(きはく)化させてきた正信会は、近年に至って、日蓮大聖人を〝聖人〟呼ばわりするにまでになってしまった。
すなわち、彼らは、平成十三年七月から約一年間にわたって、全国各地で展示会を催(もよお)したのであるが、その名称が、なんと『日蓮聖人の世界』――。
なるほど、大聖人の御書を拝すると、御自身を「聖人」「大人」「大聖人」となされた、異なる三通りの呼称が存しているが、 「仏世尊は実語の人なり、故に聖人・大人と号す。(中略)此等の人々に勝(すぐ)れて第一なる故に世尊をば大人とは申すぞかし」(御書529㌻) と仰せのように、いずれも仏の尊称であることと、本宗では相伝によって宗祖を久遠元初の御本仏と拝することによって、古来、「日蓮大聖人」と尊称し奉るのである。
したがって今日、〝聖人〟という呼称は、日蓮大聖人の本仏義を解(げ)せずに、あくまでも上行菩薩に止どめる不相伝の日蓮宗等が用いているものであり、さすがに、これを用いたことについては、正信会内部からも反発が起こったようである。が、それに対する執行部の弁明は、〝大聖人と称していたら世間から受け入れられない〟というもの。 要するに、正信会は、世間に迎合して、平然と日蓮大聖人を下すところまで堕落してしまったのである。

法宝破壊を破す

次に、大御本尊を否定する妄説を破す。
正信会は、「ダイナマイト一本で吹っ飛ぶような物が、大聖人の究極の本尊であるわけがない。それは唯物(ゆいぶつ)の次元に堕(だ)した本尊観である。我々は、色法の御本尊の奥に、眼には見えない御本仏の心法を拝するのであり、その仏の心法こそが常住不滅の真実の大御本尊である」 というが、これも、まったく法華経に説かれる法理を弁えない、習い損(そこ)ないの妄説である。
大聖人は、「文字は是(これ)一切衆生の心法の顕(あら)はれたる質(すがた)なり。されば人のかける物を以て其の人の心根を知って相(そう)する事あり。凡(およ)そ心と色法とは不二の法にて有る間、かきたる物を以て其の人の貧福をも相するなり。然れば文字は是(これ)一切衆生の色心不二の質(すがた)なり」(御書37㌻)
「口決(ぐけつ)に云はく『草にも木にも成る仏なり』云云。此の意は、草木にも成り給(たま)へる寿量品の釈尊なり。(中略)一念三千の法門をふ(振)りすす(濯)ぎたてたるは大曼荼羅なり。当世の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる法門なり」(御書五二三㌻) 等、要するに、御本尊の御文字は単なる形(色法)ではなく、御本仏の悟り(心法)を顕わした、色心不二の仏の御姿であり、御板であれ紙幅(しふく)であれ、そこに御本仏の悟りが文字をもって認められれば、御本尊の当体たる御本尊と顕われるのである、と御教示くださっている。

こうした法理も弁えず、大御本尊を唯物呼ばわりする正信会の妄説(もうせつ)は、身延派日蓮宗の邪義と何ら変わりがなく、その誤りは、すでに第六十五世日淳上人も、  「彼等(日蓮宗)は、また、〝日蓮正宗では御本尊を板や紙に執(とら)われているから唯物的思想だ〟といっておるが、事ここに至っては、開いた口が塞(ふさ)がらない。彼等には、草木成仏・非情成仏等、仏法の重大法門が少しもわかっていない。それでは、法華を学んだとは、とうてい、いえないことである」(『日淳上人全集』142㌻) と指摘されているのである。
かつては本宗の中で法門を学んだはずの正信会が、何故、このような誤った法宝(ほうぼう)の立て方をしたかといえば、つまるところ、〝眼には見えない仏の心法を信じておれば、あえて大石寺に参詣して大御本尊を拝む必要はない〟と言いたいがためであり、それはまた、正信会が、大石寺から完全に離れた後も異流義宗団として存続していくための、邪(よこしま)な布石(ふせき)であった、といえよう。
こうした根本的な狂いは、年月が経てば経つほど、教義や本尊の乱れになって表われ、いまや、紙幅の形木(かたぎ)本尊を勝手に刷(す)ったり、あるいは、紙幅の御本尊を板に模刻(もこく)した(※児玉大光ら)、という事実まで判明している。
これでは、「正信覚醒運動」と称して、創価学会の〝本尊模刻〟等を激しく糾弾(きゅうだん)し続けてきた意味など、全くないではないか。要は、正信会は、学会と同じ穴のムジナ、信心のない者同士なのである。

僧宝破壊を破す

正信会が異流義に転落した大元は、本師たる御法主上人に反逆し、血脈相承を否定したことにある。  まず、彼らが、日顕上人から受けた懲戒(ちょうかい)処分を無効にしようとして言い出した、「日達上人から日顕上人への継承には疑義がある。日顕上人は正当な六十七世法主ではない」等の疑難であるが、これはまったく無節操(むせっそう)な保身(ほしん)のための言い掛かりにすぎない。
そもそも、日達上人から日顕上人への継承については、すでに、昭和五十三年四月当時、日達上人より、次期御法主を日顕上人に決められている旨、直々に伺った僧俗があり、疑う余地はないのである。
それ故、現正信会メンバー達も、日顕上人の御登座に際しては、日顕上人を六十七世御法主と仰ぎ、認めていた。現に、その当時、ある檀徒が週刊誌上で日顕上人の継承を疑う発言をしたことに対し、彼らは、「最近、某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、また恐れ多くも御法主上人猊下に及び奉る事柄を、得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、大変情けない想いをいたしました。これは、もはや檀徒でもなければ、信徒でもありません。(中略)
御戒壇様(※大御本尊の事)・大聖人様の人法一箇の御法体(ごほったい)を血脈相承あそばす御法主、代々の上人を悉(ことごと)く大聖人と拝し奉り、その御内証(ごないしょう)・御法体を御書写あそばされたる御本尊に南無し奉るのでございます。
これに異をはさんで、なんで信徒と申せましょう。また、なんで成仏がありましょう。師敵対、大謗法の者でございます」(昭和五十四年八月二十五日・第三回檀徒大会) とまで断定しているのである。
しかるに、その後、一年数ヶ月が経過し、宗門から懲戒処分を受けるに及ぶや、彼らは一転して、それまで自分達も〝ある〟と認めていた日達上人から日顕上人への血脈相承を〝なかった〟ことにしてしまった。
これは、明らかに、日顕上人猊下による懲戒処分を無効にしようとの狙(ねら)いによるものであり、自己の保身のためには白も黒にしてしまう、無節操な妄説(もうせつ)である。もはや、これは信心でもなければ仏法でもない、汚(けが)れた謗法者の御都合主義そのもの、といえよう。
かかる妄説をもって、僧宝の座に連なる御法主上人を否定せんとした正信会は、まさしく、彼ら自身のいう〝師敵対、大謗法の者〟と成り果てたのである。
さらに彼らは、「法主から法主へと伝えられる血脈相承は形式的なものであって、真実の血脈というのは、信の一字により、大聖人から正信の僧俗大衆に与えられるものである。今日においては、正信会にのみ血脈が受け継がれている」 としている。
だが、これは、血脈に総別(そうべつ)の二義があることを弁えない、謬論(びゅうろん)である。
そもそも血脈には、総じて信心によって大衆に流れる〝信心の血脈〟と、別して御一人から御一人に伝付(でんぷ)される〝唯授一人の血脈相承〟がある。そして、唯授一人の血脈相承によって御本仏日蓮大聖人の御悟りを余すことなく継承あそばされてきた御法主上人に信をとり、師弟相対するところに、僧俗大衆にもまた、血脈が流れ通ってくるのである。
大聖人は、「既(すで)に上行菩薩、釈迦如来より妙法の智水を受けて、末代悪世の枯槁(ここう)の衆生に流れかよはし給ふ。是(こ)れ智慧の義なり。釈尊より上行菩薩へ譲り与へ給ふ。然(しか)るに日蓮又日本国にして此の法門を弘む。又是(これ)には総別の二義あり。総別の二義少しも相(あい)そむけば成仏思ひもよらず。輪廻生死(りんねしょうじ)のもとゐたらん」(御書1039㌻) と仰せられ、この総別の二義を違(たが)えたならば、成仏は思いもよらず、迷いの基となる、と戒められている。されば正信会の僧俗を待ちうけているのは、堕地獄の運命と知るべきであろう。
また、この点に狂いを生じた正信会は、次第に迷いを深くして、日顕上人に対するのみならず、伊芸益道(故人)のように、「第二十六世日寛上人の説は邪義だ」と言い出したり、「日目上人から第四世日道上人への相承はなかった」(『興風』13号・坂井法曄論文)などと言い出す者まで出てくるに至ったのである。
こうなってしまえば、誰の目から見ても日蓮正宗とは異質の宗派だが、それもこれも、全ては総別の二義を違えたところに原因があったといえよう。
いずれにせよ、正信会のなした相承否定は、大聖人の甚深(じんじん)の正法を万年まで護持していく僧宝の存在を断滅(だんめつ)しようとするものであり、それは仏法を滅せんとする大謗法なのである。

破門僧に従った壇徒の誤り

せっかく創価学会を脱会しておきながら、破門僧に従い、再び謗法に堕してしまった檀徒らの誤りを指摘しておく。
結論から言えば、彼らは、本師―小師―信徒という、師弟子の本末関係を弁えていなかったがために、道を踏み外してしまったのである。
言うまでもなく、末法今時における真実の正師とは、御本仏日蓮大聖人であり、大聖人が御入滅になられた後は、第二祖日興上人以来代々の御法主上人が、大聖人の御悟りをそのまま受け継いで大聖人の御代理となられる。それは大聖人が  「代代の聖人悉く日蓮なりと申す意(こころ)なり」(聖典379㌻) と仰せられていることからも明らかであろう。
したがって、末法の正しい信仰としては、大聖人を御本仏と仰ぎ、その上で、現実に生きておられる正師として、御歴代上人を大聖人と拝し、根本の師(本師)と定めなければならない。
しかしながら、信徒が日常的に御法主上人に接するということは不可能である故、御法主上人に取り次いでいただく、という意味で、御法主上人の御代理としての小師=手続(てつ)ぎの師が必要になる。
そこで、御法主上人から薫陶(くんとう)を受けた御僧侶が各寺院に派遣されて、信徒は、その御住職を直接の師と仰いで信仰していくのである。

以上の道理から明らかなとおり、一口に師といっても、そこには、本師―小師という、本末関係が厳然とあるのであり、日常的には寺院御住職を師と仰ぐといえども、その根本に御法主上人を本師と仰ぐべきことを、ゆめゆめ忘れてはならないのである。 しかるに、もし、小師たる住職が、本師たる御法主上人に背反して邪義に堕してしまい、そのことが本師からはっきりと指摘された場合にはどうすればよいか、といえば、その寺院に所属していた信徒は、迷わず小師を捨てて、本師に付かなければならない。それが、師弟子の本末関係を弁えた、正しい信心の在り方である。
ところが、正信会問題が起こった時、何万人という信徒(檀徒)が、この本師と小師の本末関係を弁えていなかったために、「手続ぎの師に従わなければ、成仏できないから」といって正信会僧に付き、共に御法主上人に背いていってしまったのである。

その檀徒の中には、いまだに、〝正義は正信会にあって、いずれ日蓮正宗宗門が頭を下げてきて、正信会が大石寺に戻れる日が来る〟と信じている者も多くいるようだが、三宝を破失して完全な異流義宗団に堕してしまった正信会に、そのような日が訪れることは、日が西より昇ろうとも、絶対にありえない。 また、「成立の歴史」の項でも述べたように、いまや、正信会は、住職によって考え方も教義解釈もバラバラで、方向性が統一されていない。
加えて、住職らは地位保全の手続きによって、破門された後もそのまま寺院に居座ってきたが、そのほとんどの寺院は大石寺に包括される法人である故、住職が死亡すれば、無住となって大石寺に返還されることになる。現実に、これまでも、いくつもの寺院が大石寺に返還されてきたのである。
こうした状況を見てみれば、正信会は時を追うごとに衰退の一途をたどり、いずれ近い将来に消滅してしまうことは、火を見るより明らかであろう。

正信覚醒運動の変遷 1. 本宗信仰の根本

昨今の本宗内外の情勢は、混乱まさに極に達するの感があります。こうした時こそ、『涅槃経』の
「法に依(よ)って人に依らざれ」
との仏誠のごとく、個々の檀信徒が、正邪を峻別(しゅんべつ)する法義上の基準をしっかりと身に体すべきであります。
すなわち、我々の周囲に氾濫(はんらん)する種々の偏見や、政治的意図による情報操作等に惑わされることのなきよう、人情・私情による判断を捨て、あくまでも法義に基づく判断をもって邪正を分別していくことこそ肝要なのであります。
さて法義といえば、宗開両祖以来の文底仏法の深義を、公明正当かつ精密に解釈され体系づけられた御方は、二十六世日寛上人であられます。日寛上人は『当流行事抄』に、本宗信仰の根本を仏法僧の三つに分かち、
「久遠元初の仏法僧則(すなわ)ち末法に出現して吾等(われら)を利益し給(たも)う、若(も)し此(こ)の三宝の御力に非(あら)ずんば極悪不善の我等争(いか)でか即身成仏を得ん、故(ゆえ)に応(まさ)に久遠元初の三宝を信じ奉るべし」(聖典949㌻)
と仰せられ、さらに『当家三衣抄』には、この三宝の形貌(ぎょうみょう)を簡潔に明かされて
「南無仏・南無法・南無僧とは若し当流の意は、
……南無日蓮大聖人師。
……南無本門戒壇の大本尊。
……南無日興上人師。……日目上人師、嫡嫡付法歴代の諸師」(聖典971㌻)
と御教示くださっています。
じつに、この久遠元初の三宝こそ
「仏法の根本」 (聖典949㌻)
にして、我が日蓮正宗の法義の根本をなすものであり、我々末法の衆生は、この三宝尊を信じ奉ってこそ即身成仏が叶うのであります。

正邪を分別する基準
最近、ことに「謗法厳誡」の精神が叫ばれますが、この謗法という概念とて、宗祖大聖人は
「凡(およ)そ謗法とは謗仏謗僧なり。三宝一体なる故なり」(御書608㌻)
と御決定あそばされており、要するに仏法僧の三宝に対する不信背反の義が根本的な謗法にあたるのであります。むろん、一概に謗法といっても種々の内容は考えられますが、それは大聖人が
「謗法の者にも浅深軽重(せんじんきょうじゅう)の異なりあり」(御書905㌻)
「鹿をほうる犬は頭われず、師子を吠うる犬は腸(はらわた)くさる。日月をのむ修羅は頭七分にわれ、仏を打ちし提婆は大地われて入りにき。所対によりて罪の軽重はありけるなり」(御書979㌻)
こ仰せのとおり、所対によって自ずから罪の浅深軽重に異なりが存するのです。そして、やはり根本である三宝に対する誹謗と背反こそが、もっとも根本的な謗法であり、極悪中の極悪ともいうべき重罪になることは、当然でありましょう。
したがって、御本仏宗祖日蓮大聖人(仏)、弘安二年の本門戒壇の大御本尊(法)、血脈付法の第二祖日興上人以来の御歴代御法主上人(僧)という、久遠元初即末法下種の三宝に対する〝信・不信〟の違いこそが、成仏と堕獄の分かれめであり、正信と謗法とを分別する基準なのであります。
もとより本宗の化儀化法、修行、信条等々はすべて、この末法下種三宝に対する信仰に付随して存するものでありますから、三宝に対する〝信・不信〟こそ、もっとも根本的な、かつ明瞭簡潔な〝法義上からの邪正を分別する義準〟といえるでしょう。
今日のような混沌とした状況の中にあっては、少なくとも、こうした根本の基準だけはしっかりと弁(わきま)えておかなければ、正信に止住して成仏を遂げることなど思いもよらなくなってしまいます。

三宝護持が末法の信仰

さらに一歩進んで『佐渡御書』を拝すれば、
「悪王の正法を破るに、邪法の僧等が方人(かとうど)をなして智者を失はん時は、師子王の如(ごと)くなる心をもてる者必ず仏になるべし」(御書579㌻)
と仰せであります。ここに「悪王」「邪法の僧等」とは、前の基準にしたがって判ずれば、末法下種の三宝尊に背反する在俗・出家であり、「智者」とは仏(分かてば仏法僧の三宝)に他なりません。
そして末法における仏道修行とは、謗法背反の者が三宝尊を仇(あだ)み、倒さんとする闘諍堅固(とうじょうけんご)の世相の中で、獅子王のごとき信心を奮い起こして三宝を厳護申し上げ、謗法者と闘う折伏の修行であります。かく信じ行じてこそ、護法の功徳力によって必ず成仏を遂げることができるものと拝するのであります。
この時に憶して起てぬ者は、
「いわずば今生(こんじょう)は事なくとも、後生(ごしょう)は必ず無間地獄に堕つべし」(御書539㌻)
「法華経のかたきを見て世をはゞかり恐れて申さずば釈迦仏の御敵、いかなる智人善人なりとも必ず無間地獄に堕つべし」(御書1262㌻)
と仰せのごとく、自らも仏法の中の怨(あだ)となって、成仏は叶わぬことを知らなければなりません。
以上に述べてきた筋道に立つとき、我々の信心修行の根本とは、まさしく末法下種の三宝尊をお護り申し上ぐるところに尽きるのであって、すべてが、この信念を基にした判断・行動であるよう、日々、自らを誡め磨いていくことこそ肝要なのであります。

すべて起因するところは

昨今の宗内の不祥事や混乱も、ひとえに、こうした本宗の法義と信仰の根本を踏み違(たが)えるところに起因している、といっても過言ではありません。
混乱の発端となった創価学会問題にせよ、学会が〝池田会長本仏論〟を指向したところから、自ずと本宗の三宝尊の立て方に違背する本仏観・本尊観・血脈相承観が生じ、御先師日達上人の御宸襟(しんきん)を大いにわずらわせたのでした。
また、学会の謗法逸脱を糺(ただ)すべく始まった正信覚醒運動においても、当初の原点から次第に外れて、いまや唯授一人・血脈付法の深義に異解を生じています。これ、本宗における僧宝の立て方を乱し、本宗信仰の根本を破するものであります。
このけじめに迷いを生じている方も多勢おられるようなので、この際、今日に至る正信覚醒運動の変遷について述べておきたいと思います。
もっとも、私個人の心情としましては、このような原稿を書かなければならない状況が訪れてしまったことが、まことに残念でなりません。
覚醒運動に携わる方々のなかには、これまでお世話になったり、親しく激励していただいた方もおられますし、今日に至るまで私白身も種々悩み、葛藤がありましたけれども、やはり御先師日達上人が、
「私の次の代、その次の代になっても、少しも変わらず信仰を続け、総本山の法主を中心に御奉公を貫いていく、それが正しい本宗の信仰の在り方ですよ」(昭和五十三年一月のお目通り)
と仰せられた御教示を想い、また本宗の法義・信仰の根本を明示された日寛上人の御指南を拝し、意を決した次第であります。

正信覚醒運動の変遷 2.日達上人と覚醒運動

少なくとも、この運動の起きた当初の時期においては、これに携わる大多数の人々が、「唯授一人・血脈付法の御法主上人と、戒壇の大御本尊を根本とした、正しい日蓮正宗の信仰をしていかねばならない。自分達の運動は、何も知らぬ学会員をして、この正しい信仰の在り方に目覚めさせるためのものである」 との意識を持っていた筈(はず)です。
また御先師日達上人も、当初は、そのように正信覚醒運動を認識され、評価あそばされておられたものと拝します。それ故、これに携わる御僧侶方や檀徒の人達に対し、しばしば激励のお言葉等を賜わり、理解と信頼をお示しになっていたのであります。
それは、当初における覚醒運動の路線が、本宗の法義・信仰の根本に適うところがあったからに他なりませんが、その当初の路線と原点は、途中から徐々に不穏な方向へと変貌しはじめました。というよりも、むしろ私どもの知るかぎりでは、ごく一部の方の当初からの所信に基づき、他の大多数の僧俗が次第に逸脱した方向へと誘導された、というのが真相でありましょう。
それについては、私どもの見聞してきた出来事、日達上人のお言葉、その他の資料等を見るとき、あまりに明らかであります。
まず、檀徒という名称も耳新しく、まだ正信覚醒運動という名称も使われていなかった昭和五十三年の一月、すでに今日の状況が来たることを予想させるような、一部の方々の発言がありました。
その内容は、「日蓮正宗の中に創価学会の四字が存在するかぎり、広宣流布は絶対にできない。それだけ学会は世間に悪印象を与えすぎている。
また、日達上人は八方美人であるから、学会問題について日達上人のお言葉どおりに行動することは危険である。
そこで、まず日達上人が体を翻(ひるがえ)せぬ状況を作るべく、学会破門を要求する僧侶が集まって日達上人を突き上げ、それに歩調を合わせて法華講数千名を本山に結集させる。そして、いっきに日達上人から学会破門の決断を下してもらう」 というものでした。
いったい、これが真に御法主日達上人をお慕い申し上げての赤誠の御奉公と呼べるのであろうか、また創価学会に対しても、その謗法を改めさせて正しい信仰に立ち還らせるというより、むしろ学会が存在すること自体を頭から許さないつもりではないのだろうかと、甚(はなは)だ疑問を感じた次第です。
そして、これを知りながら放置しておいたらどうなってしまうのか、それこそ夜も眠れぬほど悩みましたが、この頃から急速に覚醒運動に参加する僧俗も増加し、その大半が血脈付法の日達上人を仰ぎ奉って活動を進めておられる様子でしたので、結局、分を弁えぬ想いは差し控えようと考えたのでありました。

疑惑いだかれていた御先師

しかし、このとき覚醒運動に対して懐いた一抹の不安は、その後も拭(ぬぐ)いきることはできませんでした。いわゆる11・7を経た五十三年末頃には、日達上人も、  「私も三・四年前から学会等からいろいろな話があって、自分でも苦しんだ。それに対しては今年の春から、再三諸君にも注意をしてきております。すると、『猊下の言うことは、しょっちゅう、ころころ変わっている』などと言うのであります。変わってはいないんだけれども、言うところの一つ二つ違ったところがあると、そのあげ足を取って、『間違ってる、間違ってる』といって、本当の真意を知らない」(昭和53年11月30日のお言葉・『暁鐘』第11号) と仰せのように、覚醒運動の一部に、真に日達上人の御意を拝しえない人々がいることを御気付きあそばされていました。
また、翌五十四年二月十二日、総本山対面所でお目通り申し上げた際にも、日達上人は、「学会の誤(あやま)りを責めてきた僧侶の中にも、私の言うことが間違っているとか、聞くと危険だとか、陰でいろいろ言っている者がいるようですね。まったく困ったものです」 と仰せられ、そうした動向を御心配なさっていたのであります。

中枢に根付いていた意識

要するに覚醒運動を推進した一部の方々は、戒壇の大御本尊と血脈付法の御法主日達上人に御奉公申し上げるため、というよりも、あくまでも学会を徹底的に屈伏せしめるため、という意識が底流をなしていたように考えられます。それ故、時には学会を厳しく破折され、時には大きく見守ろうとなさる日達上人の大慈悲を、「八方美人で、ころころ変わる」としか受けとめられなかったのではないでしようか。
むろん前にも述べたごとく、正信覚醒運動に携わった大多数の僧侶方および檀徒の人達は、こうした意識・感覚を持ってはおられませんでした。ひたすら唯授一人の血脈に基づく正しい信仰、末法下種の三法を渇仰(かつごう)する本宗伝統の信仰の上から、これに背反する当時の学会路線を糺(ただ)そうとしていたように思います。

それは、御法主日顕上人視下も「日達上人の御指南に従って、創価学会の過(あやま)ちを是正せんとした人々の行為は、また御仏智に従った行動である、と私は思っております」 と評価あそばされたとおりであります。
しかしながら、こうした大多数の善意とは裏腹な意識が、当初から、覚醒運動を推進してきた中枢のところに根付いていたのです。それがさらにエスカレートし、かつ徐々に大多数の善意の方達をも巻き込んでいったのは、昭和五十四年春、全国檀徒新聞『継命(けいみょう)』が発刊されてからでした。 この『継命』の発刊を許されたのは日達上人であられましたが、いざ創刊号、第二号、第三号と発刊されていくなかで、五十四年六月、七月、御遷化寸前の日達上人が『継命』ならびに覚醒運動をどのように評価され、何と仰せられたか、また、『継命』の巧みな情報操作により、多くの方々が今日のような路線へと誘導されてしまった経過の事実については、以下に詳述することにします。

『継命』創刊前後の情勢変化

檀徒新聞『継命』創刊号は、昭和五十四年四月二十八日に発刊されました。第二号以降が毎月一日の発行であるのに、なぜ創刊号のみ二十八日発行であるかといいますと、池田大作氏が同年四月末に引責辞職するとの情報があったため、当初の五月一日発行という予定を繰り上げたとのことです。 それだけ、池田氏の辞任・新体制での学会再出発がもたらす宗内情勢の変化を意識していた、というわけなのでしよう。
そして事実、これを境に、学会問題に関する宗内の情勢は大きく変わりました。日達上人は、「(池田氏が)会長を辞めて一切の責任を退く、今後はそういうことに口を出さない、また噂される院政説ということも絶対にしない――ということを表明してくれました。それで宗門としても、いちおう解決したものと思います。したがって、今まで檀徒になった人は檀徒として、どこまでも守ってもらいたいが、今後、学会から無理に檀徒として引っ張ってくることはいけない」(4月28日のお言葉)  「この数年間、まことに残念な出来事が続き、波乱を招きましたことは悲しいことでありました。
……どうか今後は信徒団体としての基本は忠実に守り、宗門を外護していただきたいのであります」(5月3日・創価学会第40回本部総会の砌) 「宗門の方も、それだけの大きな腹をもって学会を受け入れて進んでいくのが当然かと思いまして、向こうの出方を待つ、すなわち、これから先どういうふうにしていくかを待つつもりであります。
……学会が正しく日蓮正宗の教義を守り、正しい信心をして、また世間の人を折伏していくのならば、我々はそれに準じて、どこまでも学会を信徒団体として受け入れていかなければならないのでありますから、ここにしばらく様子を見なければならないと思うのであります。
まだ新しい学会の執行部ができたばかりでありまして、いちおうは受け入れておっても、ただちに変更すれば誰でも疑いを持ちますから、すぐにはできないでしょう。しかし宗門の皆様は、大きな腹をもって学会を受け入れていく、という方針のもとに進んでいっていただかなければならないのであります。
……ですから皆様が、相変わらず今年の五月三日以前のような態度であっては、宗門としてはまことに困るのであります」(5月29日・寺族同心会の砌) 等々の基本方針を御示しになりました。

それは、学会がそれまでに犯してきた誤(あやま)りをなかったことにする、などという趣旨でないのはもちろんですが、基本的には、大きな包容力をもって厳しくも暖かく学会の前途を見守っていく、そして学会が再び謗法化の路線をたどらぬかぎり、本宗信徒の団体として受け入れていく、ゆえに、積極的な檀徒作りはひとまず停止すべきである、という御意でありました。

『継命』第二号の論調と院達

こうした状況の推移のなかで、『継命』編集スタッフの一人・高妻明憲氏は、私の知人に  「これからは『継命』も学会批判ばかりしているわけにもいかないので、第二号からは、主に檀徒育成のための教学記事等を中心に載せていきますよ」 と語っています。もし、このときの高妻氏の言のごとく『継命』の編集方針が改められていたら、今回のような大混乱は起きなかったかもしれません。しかし、それを今の時点で云々してもはじまらないでしょう。
『継命』第二号には
「全国の日蓮正宗檀徒諸君!七百年御遠忌をめざして、さらにさらに折伏・覚醒の波を、千波万波と起こしてゆこうではないか!」
「学会は、ついに何一つ反省を示さなかったのである。……この期(ご)に及んでなおも日和見(ひよりみ)、かつは〝無慙(むざん)集団〟に荷担(かたん)、ないしは庇(かば)い立てるものは、もはや大聖人の弟子たりえないのではないか。謗法は大聖人の厳誠するところであるがゆえに、もし謗法を正そうとするものを咎(とが)めるようなことがあるならば、それ自体が謗法になる」 等々の記事が掲載され、新体制となった学会に対し、さらなる批判・攻撃が加えられたのです。

たしかに「謗法は大聖人の厳誠するところ」ではありますが、ともかく学会が「これまでの謗法は直していく」と御宗門に表明している以上、本当に直していくのかどうか、また同じ誤ちを犯さぬかどうか、しばらく大きな腹で見守っていこうというのが日達上人の大慈悲の御意でした。それに対し、『継命』の記事論調は「あくまでも学会は謗法の団体、無慙集団であり、この期に及んで学会を責めぬ日和見主義者は大聖人の弟子にあらず」 と受け取れるものです。
そこで、日達上人は宗務院に御命じになり、同年六月十六日付で『継命』宛ての通達(院第3047号)を発せられました。すなわち、 「継命編集責任者殿  宗務院においては、先に院第3015号及び院第3018号をもって全国教師僧侶に対し、『創価学会員に対しては、自分からの意志・希望によって檀徒となることを申出た者は受け入れて差支えないが、それ以外は一切の働きかけを固く禁止する』旨を通達し、更に院第3037号をもって、上記の件は教師僧侶のみでなく、広く法華講・檀徒をも対象とするものであるから、その旨を所属の法華講・檀徒全員へ指導徹底せられるよう通達いたしました。
然(しか)るところ、『継命』第二号においては、紙面全般にわたって、この院達の趣旨に反する論調が強く表われているように思います。
よって、宗務院として『継命』編集責任者に対し、今後はその編集に当って、この院達の趣旨に反せざるよう充分に注意をせられたく通告いたします。 なお、『継命』には、編集責任者が明らかでありませんので、折返し宗務院宛に編集責任者の氏名及び所属寺院をお知らせ下さるよう願います。
上記のとおり通達いたします」 との内容でした。

院達は日達上人の御指示

檀徒の方のなかには、「その院達は宗務院が勝手に出したもので、日達上人は御存知なかったのではないか」との疑惑をもたれている向きもあるようですが、考えてみてください。管長(御法主上人)の御存知ないところで、その御意志とも無関係に、公式文書で院達を発する、などということが可能でありましょうか。
また、もし院達の趣旨が、若干(じゃっかん)でも御法主上人の御意とズレているような場合には、御法主上人の御命により、必ず訂正もしくは補足の院達が発せられることは過去の先例が物語っています。それも行なわれていない以上、前の院達(第3047号)が、日達上人の御意志によるものであることは、あまりに明白であります。 また、この院達が発せられていたことは、当時、私どもも知りませんでした。大多数の御僧侶方・檀信徒の方々も御存知なかったことと思います。
それは、『継命』編集者の立場を考慮されての、日達上人の暖かい御慈悲であったものと拝するのであります。
ともあれ、この院達が発せられていた事実は、日達上人と宗務院役僧の方々、そして当事者である『継命』関係者だけが知っておられたわけです。
私が、この院達の存在を知ったのは、九ヶ月後の昭和五十五年三月上旬、私の知人が『継命』編集室を来訪した折、たまたまデスクの上に置いてあった院達のコピーを見てしまい、驚いて、その日の夜、私に教えてくれたことからでした。 そして四ヶ月後、宗門機関誌『蓮華』(現在は『大日蓮』誌に併合)七月号誌上で初めて宗内一般に公開された院達3047号の内容は、すでに私が知人から聞いていた内容そのままだったのです。
したがって私は、この院達が御遷化直前の日達上人の御意志に基づき、たしかに『継命』編集室宛てに発せられていた、ということを確信するものです。

「継命は日達上人と闘う」!?

さて、この院達を受け取った『継命』では、どのような回答・対処をしたのでしようか。それは、なんと
「拝復  6月16日付院第3047号、拝見致しました。
敬具
継命編集室 日蓮正宗宗務院庶務部御中 昭和五十四年六月二十七日」 というものでした。
最近、しばしば「正信会が誠意を尽くして質問しても、本山・日顕上人は何ら誠実な回答すらなく、ただ卑劣(ひれつ)な弾圧を加えてくる」等の発言を耳にしましたが、もとより日達上人の暖かい御慈悲、懇切(こんせつ)な院達3047号に対し、不誠実きわまりない愚弄(ぐろう)・挑戦的な態度で応じたのは、『継命』正信会の側であったのです。
ここに、すでに総本山・御法主上人との対立、そして後の『世界宗教への脱皮(だっぴ)』に見られる新宗門設立路線をも生みだす、危険な方向性の芽萌(めば)えが感ぜられるのであります。
また、「日顕上人が卑劣な弾圧」云々といいますが、およそ、弟子分としての道を弁え、誠心誠意をもって御質問申し上げる者を、どうして御法主上人が弾圧などなさる筈がありましょう。
それは、日達上人の御代の当時から、すでにかかる不遜・背反の態度であったが故に、現御法主日顕上人猊下におかれても、今さら質問の内容にいちいち答えられるまでもなく、まず、その根底の姿勢・体質を厳しく叱責なさっているのです。しかるを、「誠実な回答もなく、卑劣な弾圧を加えてくる」などとは、あまりに手前勝手な論法ではないでしょうか。
また、こうして『継命』第二号発行の波紋が生じはじめた同年六月には、『継命』の編集スタッフの方々が 「あくまでも『継命』は学会と闘う。それで本山から注意されるのなら、その時は本山・日達上人と徹底的に闘うまでだ」 との、篤くべき方針を口にしています。むろん、それは前に挙げた同年五月当時の高妻氏の発言と比較して、わずか一ヶ月という短期間にしては、あまりに裏腹な方向転換であり、当然、どなたかが編集スタッフをそのように指導(操縦?)したものと推し測ることは容易でありましょう。
しかし、いずれにせよ、こうした一連の動向に関しては、大多数の御僧侶方・全国檀徒の方々はまったく事実を知らされていませんでした。院達3047号が送付されていたことも、本山を愚弄する回答を発送したことも、むろん日達上人と闘うなどという方針についても、ことごとく一部僧侶・檀徒の間で密(ひそ)かに処理・決定・執行されていたのであります。
そして『継命』紙上では、あたかも日達上人の御意志どおりに正信覚醒運動が推進されているかのごとき記事が掲載され、都合の悪いことは隠蔽(いんぺい)されて、巧妙に情報操作が行なわれました。
これでは読者が「我々の正信覚醒の活動は日達上人の御命令にそったものである」と思い込まれるのも無理からぬ話で、後に、本山からの厳しい御注意が広く一般檀徒にまで与えられる事態となった時には、檀徒の方の心情として「我々は日達上人の仰せどおり活動してきたのに何故!?」と受けとめることは必定(ひつじょう)といえます。
その時こそ、一部の方々の当初よりの方針――本山と闘うとの旨を訴えれば、大多数の僧俗も心情的に「理不尽な本山と闘ってでも正信覚醒運動を貫徹する」との路線に一結する……。計算しぬかれた情報操作・心理作戦以外の何物でもありません。 今日の宗内をここまでの混乱に陥れた根源も、この辺にあるのではないかと思うのであります。

「覚醒運動から脱けなさい!!」

こうした、正信覚醒運動の中枢に根付く危険な体質・方向性について、英遭なる御先師日達上人がお気付きになられない筈がありません。
事実、日達上人が御遷化あそばされる直前の七月のある日、理境坊住職・小川只道御尊師は、総本山大奥において日達上人より
「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ。もし、あのメンバーに入っているのなら、今のうちに脱けておきなさい」 との御指南を賜わっており、他の御僧侶方にも学会の様子をみるために、しばらくの間正信覚醒運動を止めるように御指南をされたと伺っています。
この後、間もなく日達上人の御遷化という悲しい日を迎えましたが、もし、日達上人があの時点で御遷化あそばされず、御壮健にておられたならば、こうした日達上人の非公式なお言葉は、必ずや公式な御指南となり活字にもなっていたであろうことを、今は強く確信するのみであります。
関係者各位の証言、そして状況証拠を総合してみるとき、やはり正信覚醒運動は、当初から何らかの野心をもち、日達上人の御意にも背反していた一部の方によって推進されてきたこと、その路線に対しては日達上人も重大な疑惑と危倶(きぐ)を懐かれ、院達をもって警告を発せられていたことが明らかであります。
なお、その〝何らかの野心〟が具体的にどのようなものであったのかについては、後に述べることにいたします。 以上の経過につき、あくまでも信じられないという方もおられるかもしれませんが、それなら事実を探求しぬいてください。よく檀徒の皆さんがいわれるように、正しい信仰は〝不疑曰信(ふぎわっしん=疑わぬことを信と曰う)〟ではなく、疑問を直視して真実を求めぬき〝無疑曰信(むぎわっしん=疑い無さを信と曰う)〟の境地に至ってこそ、はじめて正信と呼べるのですから。

正信覚醒運動の変遷 3. 一読噴飯『継命』の反論

以上のごとく、檀徒新聞『継命』の発刊から日達上人御遷化直前までの経緯につき、私が『暁鐘』第39号、第40号誌上で種々述べましたところ、さっそく『継命』第41号(56年5月15日号)の論説欄に「『暁鐘』の誹謗論文を破す」と題する、言い訳のような、ごまかしのような記事が掲載されました。
あまりの子供騙しな内容に、まともに相手をするのもどうかと思われましたが、それでも先方が急いで(慌てて?)反論を発表された以上、一度は再反駁して間違いを指摘しておくのが礼儀かと思いまして、誌上を借りて若干の論駁(ろんばく)をさせていただきました。その内容を以下に紹介いたします。
まず当該記事において、もっとも呆れさせられたのは、「当事者でもない者が、不正確な情報をもとに〝覚醒運動の変遷〟を批判しようと、どだい真実など書けるわけがない。いわんや、そこに法門の未了(みりょう)や事実の誤認・わい曲があれば、まさしく噴飯ものといえよう」と仰々(ぎょうぎょう)しく前置きしたうえで、その実例として『継命』創刊号日付の問題などを挙げている点です。
いったい発行の日付のことをとり挙げて、「法門の未了や事実の誤認・わい曲」などと大騒ぎすること自体、あまりに馬鹿げた話です。私が前に、『継命』創刊号の日付のことを述べたのは、ひとつのエピソードとして挙げたまでのことで、全体の論旨とはほとんど関係がありません。
それを、むきになって「誤りを糺(ただ)す」などと称し反論されるわけですから、「まさしく噴飯もの」です。心ある人達は失笑を禁じえなかったことと思います。
念のため申し添えておきますと、『継命』創刊号の発行を五月一日付にするつもりであったが池田氏辞任の情報を得て四月二十八日付にした、というのは、外ならぬ「当事者」である『継命』編集責任者(とされている)高妻明憲氏が、当時、とくとくとして語っていたことであります。その発言の後に、当該記事中で弁明している「立宗会の佳日」にも当たるし、との弁もあったと聞いていますが、それはあくまでも傍意(ぼうい)にすぎません。

見当違いな「誤りである証拠」

次に、当該記事中、「継命第2号の論調について、佐藤氏は、K氏の発言を引いて、当時、いかにも継命内部に『5・3』路線にそったムードがあったにもかかわらず、一部僧侶の煽動(せんどう)で、結局本山に反した紙面になったかのように論じているが、これもまちがいである。その証拠に、例としてあげられた第2号一面の檄文は、当のK氏の筆によるもの」と述べられていますが、これで反論になっているとでも思っているのでしようか。
私が前に述べたのは、『継命』創刊号が発刊され、「5・3」も経た直後に、高妻氏が、一度は日達上人の示された御指南に従うかのごとき発言をされながら、結局、その後に発行された『継命』第二号には日達上人の仰せに反する論調の記事を掲載したこと、そして、さらには「本山・日達上人と徹底的に闘うまで」との驚くべき発言をされたこと等々を挙げ、前言からわずか一ヶ月もたたぬうちに裏腹な変心をしたのは、おそらく誰かの指導(一部僧侶の煽動とは書いておりません)によるものと思われる、ということでした。
それに対する当該記事での反論が、「これもまちがいである。その証拠に、例としてあげられた第2号一面の檄文は、当のK(高妻)氏の筆によるもの」云々とは、『継命』編集スタッフの方々はよほど国語の理解力に欠けているものとみえます。
高妻氏が第2号の檄文を書いたという事実は、氏の変心ぶりを物語る証左でこそあれ、何ら私の述べたことに対する反論にも批判にもなっておりませんし、どこが「誤りを糺」しているのか、「まちがいである証拠」なのか、さっぱりわかりません。支離滅裂とはこのことです。
もっとも、あえて当該記事の価値を認めれば、「高妻氏は第二号でも檀徒作りを推進した、けっして高妻氏が覚醒運動から離れたことはない」旨を弁明し、運動内部における高妻氏の保身を計るのに役立つぐらいのものでしよう。

読者あざむくスリ換え記事

次に、当該記事中、「54・6・18付の院達についてだが、これとて何も情報操作などを意図して公表しなかったわけではない。いかなる運動であれ、情勢判断は不可欠の要件である。この院達にかぎらず、継命への院達は公表する価値を認めなかったにすぎない。佐藤氏の論法では、例えば、ガンの病人を心配して、病名を知らせぬことも情報操作になってしまう」と述べていますが、詭弁もここに極まれりの感がいたします。
そもそも「情勢判断」とは、いったい何のことでしょう。全国の御僧侶方や檀徒の方達が真相を知って動揺するのではないか、との情勢判断をつけたとするならば、それこそ情報操作以外の何物でもないではありませんか。
ことに、「ガンの病人を心配して病名を知らせぬ」という譬えを引かれていることよりすれば、『継命』関係者の方々は名医で、他の僧俗はガンに犯された病人、そして病人に真の病名を知らせれば動揺して活力を失う(すなわち覚醒運動を続行する気持を失う)、ゆえに真実ありのままは公表してこなかった、との図式が容易に成立するのであります。
これを情報操作といわずして、何といえばよいのでしょうか。人を馬鹿にするにも、ほどがあると思います。
それに、私が「情報操作」として指摘したのは、けっして『継命』が院達を公表しなかった点ではありません。日達上人の命によって送付された院達に対し、まったく愚弄・挑戦的な態度で応じたばかりか、「本山・日達上人と徹底的に闘う」と発言してはばからず、そのくせ紙上には、あたかも自分達の活動が日達上人の御意に添ったものであるかのごとき記事を掲載し続けたことを、「情報操作」であると批判したのです。
それを、あたかも私が「情報操作」であるとして指摘したのが、院達を公表しなかったことだけであるかのごとくスリ換え、読者の目を欺(あざむ)いてしまおうというやり方は、かの山崎弁護士の恐喝事件の際に見られた某学会幹部の発言と変わるところがありません。これを称して〝恥知らず〟というのです。

短絡思考が御真意歪める

また、当該記事中、「日達上人の御真意にせよ、学会の師弟論を厳しく破折された妙流寺での最期の御説法を拝すれば、奈辺(なへん)にあるか明白であろう」と述べていますが、ここにも『継命』関係者の短絡思考ぶりというか、苦しい言い逃れがうかがえます。
まず、いわゆる「5・3」の後、日達上人が学会に対しどのような御考えをもっておられたか、という点ですが、それは前回に引用した日達上人御指南からいけば、
①今後、学会がどのようにしていくのか、大きな包容力をもって見守っていく
②したがって、宗門としても「5・3」以前のような態度で、学会員を檀徒にすべく責め続けてはならない
③学会が再び謗法化の路線をたどらぬかぎり、本宗信徒の団体として受け入れていく
との御意であったと拝せられます。
これが学会のそれまでの誤りをなかったことにするとか、学会員に対し一言も善導してはならぬといった趣旨でないことはもちろんで、学会を本宗信徒の団体として暖かく見守っていくうえから、これまでの誤りを正して本来の日蓮正宗の信心を教示すべきは当然、と拝するのであります。
さて、五十四年七月十七日の九州・妙流寺における日達上人の御説法ですが、これは、『下山御消息』につき懇切に御説法あそばされたなかで、報恩に関する御金言によせて、
「よく学会の人が間違ったことを言いますね。『師匠が地獄へ行ったら自分も地獄に行っても良い』という考えは大変な間違いてあります。よく考えなければいけません。そのような考えは、人を信じて法を信じないということであります。もしも師匠が地獄へ落ちたならば、自分が本当の信心によって救ってやろうということこそ師匠に対する報恩であります」
と仰せられ、仏法信仰者の正しいあり方を学会員に御教示くださったわけです。これとて、心静かに拝するならば、なにも学会を謗法の団体・無慙(むざん)集団として否定し去ったり、「5・3」の意義を翻(ひるがえ)されたわけでもありません。学会を大きな気持で受け入れつつ、しかも正しい信心のあり方へと善導なさっておられることは明白です。
これこそ、日達上人が常に御身をもって示されていた〝本来の正信覚醒〟の姿であり、「5・3」の直後から、その意義を全面否定するような形で「学会は、ついに何一つ反省を示さなかったのである。……この期に及んでなおも日和見、かつは〝無慙集団〟に荷担、ないしは庇(かば)い立てるものは、もはや大聖人の弟子たりえない」と檄をとばした『継命』第2号の論調とは雲泥の違いであります。
また、その『雲泥の違い』故に、日達上人の命によって54年6月16日付院達3047号が発せられ、あるいは54年7月の「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ」との御指南があったともいえましょう。
しかるに、妙流寺での御説法中に「学会」の二文字を見つけては、日達上人の御真意が「奈辺にあるか明白であろう。その御遺志を体し、一貫して『護法』の二字を追求してきた覚醒運動の正しさ」云々などという『継命』当該記事は、まったくの短絡思考であり、苦しい言い逃れとしかいえないのであります。

覚醒運動の変貌が与える影響

もっとも、当該記事中、「それ(※覚醒運動の正しさ)は何よりも、今や公然と池田指導体制が復活した学会の現実をみれば、歴然としているではないか」云々と述べられている点につきましては、少々考えねばならぬと思います。
すなわち池田大作氏引責辞職の直後、4月28日の日達上人お言葉には
「(池田氏が)会長を辞めて一切の責任を退く、今後はそういうことに口を出さない、また噂される院政説ということも絶対にしない――ということを表明してくれました。それで宗内としても、いちおう解決したものと思います」
と仰せられているにも拘わらず、現在の学会の状態は、実質的に「公然と池田指導体制が復活」しているようにも思えます。
しかも、最近発行の『聖教新聞』所載の〝今週のことば〟では、宗門が未曾有(みぞう)の混乱状態のさなかにあるというのに「ついに我々は勝った!」という不審きわまりない指導が流されており、これが宗門を騒がせた一方の当事者の真に懺悔(ざんげ)反省している姿であろうか、もしや、再び五十二年のごとき学会路線が復活するのでは――との疑念が込み上げてきます。
日達上人も、五十四年五月二十九日のお言葉において
「しばらく(※学会の)様子を見なければならないと思うのであります。まだ新しい学会の執行部ができたばかりでありまして、いちおうは受け入れておっても、ただちに変更すれば誰でも疑いを持ちますから、すぐには(※逸脱路線の復活は)できないでしょう」
と仰せられ、基本的には大きな気持で学会を受け入れつつも、長い眼で学会の出方を見極めなければならぬ、との御意でしたが、やはり私どもも現在から将来に向けて、まだまだ学会の方向性を厳しく見守っていかねばならない、と思うのであります。
しかしながら、このように現在の学会に不審な点があるからといって、それが「覚醒運動の正しさ」を証明しているとは思えません。むしろ、今日のごとく覚醒運動が変貌してきたが故に、なおのこと「やはり学会には一点も誤りはなかった、池田先生の正しさが証明された、ついに学会は勝った」等々と開き直り、懺悔できなくなった学会員も多いのであります。
そうした学会の姿を見て、「やはり覚醒運動は正しかった、学会にはまったく懺悔がない」と責めるのでしたら、これは、もはや、いずれか一方が力を失って倒れるまで続く、終わりのない永久戦争です。行きつく先は、学会・檀徒そして正信会も含む全宗門の疲弊(ひへい)という、悲しむべき事態でありましょう。
それを回避するためにも、今日のごとく変貌した正信覚醒運動の実態を明らかにし、本来、日達上人の御示しくださっていた路線へと復帰せしめることが、もっとも急務であると考える次第であります。

姑息(こそく)な策略はせぬが賢明

最後になりましたが、『継命』当該記事中、「だぶん羽柴増穂氏あたりをニュースソースとしているのであろうが」との一文が見られますが、『継命』編集スタッフの方々は、ちょうど「こわい」と思って見ると、まわりのススキがすべて幽霊に見えるのと変わらぬ心境のようであります。私が前回までに指摘してきた事実は、もとより羽柴氏を情報源とするものではありませんでしたが、それをやみくもに羽柴氏に結びつけて考えるあたり、何か不透明な部分が感じられてなりません。
また、やがては、羽柴氏は学会の送ったスパイてあり、すべての正信会および『継命』への批判は羽柴氏の謀略である、とでも始めるつもりなのかも知れませんが、大衆は愚にして賢であります。そうしたスリ換えとごまかしによって、いつまでも読者を欺(あざむ)くことはできませんので、ならば最初から姑息(こそく)な策はとらぬ方が賢明である、とだけ御忠告申し上げておきましょう。

狂人走って不狂人走る…

以上、『継命』に対する論駁(ろんばく)として貴重な頁をさいてしまいましたが、今後、この種の反論にもならぬ反論、批判にもならぬ批判がありましても、そのつど、まともに相手をしていることもできません(教義上からの問題なら別です)ので、読者諸賢も御了承ください。先方にしてみれば、その内容よりも、論説欄に「誹謗論文を破す」などという大仰な見出しをつけ、『継命』読者に「いかに『暁鐘』が間違っているか」との印象を植えつければよいのかもしれませんが、それに逐一、再反論して誤りを糺していたら、あたかも狂人走って不狂人走るの愚行に陥ると思うのであります。

正信覚醒運動の変遷 4. 無節操な宗門誹謗の論理

檀徒新聞『継命』の論調に、御先師日達上人の御指南から外れる傾向があったため、日達上人の命を受けた宗務院より院達3047号が発せられたこと、また、それに対し『継命』側では宗門を愚弄(ぐろう)する態度で応じたこと等々については、前にも述べたとおりです。
しかして日達上人は、御遷化の直前、
「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ」
と仰せられ、覚醒運動の路線に重大な危倶(きぐ)を懐かれておられました。
この、日達上人の懐かれていた危倶が現実のものとなり、突然、『継命』の論調が変わったのは、日顕上人猊下が御登座されて三ヶ月後、同紙第7号(54年11月1日号)でした。

ベールを脱いで宗門攻撃

それまで、たとえ学会を激しく攻撃し、宗門より注意を与えられてはいても、直接的に宗門を批判したり、御法主上人を誹謗・嘲弄(ちょうろう)したりする記事は掲載していなかった同紙が、にわかに変貌したのです。
いわく
「(日顕上人御登座直後の)尊いお姿がいつの間にか霧の中に隠れ、開かれた心が閉ざされ、何でも聞いてくださる筈が、威嚇(いかく)と高圧と一方的な話の片道通行になってしまった」
「政治的なご都合主義で、純粋に思いつめた十万人の信徒をもてあそぶことが、宗門の将来にとってどれほど危険なことかをよく認識されるべきである」
「あるいは数と権力だけを追うことを意味する池田流の広宣流布路線にのせられて、当初の謗法に対するきびしい感覚をゆずられたのか」
等々。宗門批判あるいは強迫とも受け取れる言辞(げんじ)、あるいは御法主上人を卑しむ表現が散見されるのであります。
後に、「正信会では何度となく誠意を尽くして日顕上人に言上申し上げたが、何ら誠実な回答もないので、このような師を捨てる以外になくなった」等の言い分を耳にしましたが、いったい日顕上人猊下の御登座後わずか三ヶ月にして、それも公物たる新聞紙上に、かかる不遜な記事を掲載しながら、なにが「何度となく誠意を尽くして言上」なのでしょうか。
これを、弟子檀那分にある者の、師を想う赤誠の心情と呼ぶことはできないのであります。

日達上人に対する本音(ホンネ)

また、同紙上に、
「事態の深刻さにあわてた池田大作が急きょ登山して来て平身低頭して謝(あやま)り、七百遠忌の費用として35億円を御供養すること等を申し出、『何とか手を切ることだけは許して下さい』と懇願(こんがん)した。その結果、前法主も急転、『手を切ることはしない(略)』との方針に変ってしまった」
と述べられている点なども、事実を歪(ゆが)め、御先師日達上人の御高徳を著しく汚すものです。
すなわち、池田大作氏が「何とか手を切ることだけは許してください」と、平身低頭して謝罪したので、日達上人は「貴方(あなた)がそこまで反省されているなら、今度だけは破門は……」と大慈悲をもって寛恕(かんじょ)あそばされたのです。その後に、訪中の話題や、七百御遠忌の御供養の申し出があったわけで、なにも35億円と引き換えに学会破門を許されたのではありません(その旨は日達上人からも伺っております)。
『継命』紙は、これの前後を入れ換え、あたかも日達上人が法よりも金力財力を重んぜられたかのごとく、悪意をもって歪曲(わいきょく)したのであります。
これが、日達上人御遺弟(ゆいてい)方の顰蹙(ひんしゅく)をかったためか、以後、同紙の論調はさらに微妙に変わります。

一転、日達上人の御名を利用

同紙第8号をみると、かの北条報告書に関連して、
「前御法主上人の御指南は、明瞭かつ厳然としており、今回の院達とは天地の相違である。……これをひどいとか、猊下の信心そのものを疑うとかいう北条氏の信心の狂いぶりが目に余る。下衆(げす)の逆(さか)うらみとはまさにこのことである」
「前御法主上人に対しても謗法よばわりであり、とても信服随従(しんぷくずいじゅう)などという気持のかけらも見られない」
「我々は、前御法主上人を先頭に命がけで戦った。今、まだその決着がつかないときに、(日顕上人猊下が)『私はそういうことはないと確信します』『あるかないかわからないのに云云』等々と言うことが、いかに現実ばなれした、ナンセンスな論議であるかはいうまでもないだろう」
「また、最近やはり、〝大所高所に立って〟とか、〝古い檀徒の姿とくらべて〟とか、〝学会の布教の功績〟とか(以上は日顕上人猊下お言葉中よりの抜粋)をたてに、正信覚醒運動に対する、的はずれの批判が試みられているやに聞く」
等々の記事、また『編集後記』にも
「前御法主上人には、本紙紙名を御命名賜り、その意義を思うにつけ勿体(もったい)なくも故上人との深き因縁を感ずるものであります」
等の表現が散見されます。
これ以後『継命』紙では、日達上人を讃嘆しつつ、対比する形で日顕上人猊下を誹謗する論調が目立つようになり、同時に、自分達の活動はすべて日達上人の仰せどおりのものであり、それを日顕上人猊下と宗務院が不当に弾圧している、といった印象を与える記事が掲載されるようになりました。
鳴呼、何たる無節操でありましょうか。本音では日達上人をも軽賎(きょうせん)しながら、それが戦略に不都合と判断するや、たちまち日達上人を讃嘆し、その御名を旗印のごとく利用して檀信徒の眼を歎き、あまつさえ現御法主上人への反抗心を植えつける道具にするとは……。
これほど卑劣で悪質なやり方もないでしょう。こうしだ欺瞞(ぎまん)に満ちた路線に乗せられ、涙ながらに、日達上人への御報恩=正信覚醒運動の完遂(かんすい)であると叫ぶ方々を目にしては、悲しみと憤(いきどお)りで胸が詰まる想いであります。
ともあれ、第9号(55年1月1日号)以降の『継命』紙には、ひんぱんに日顕上人猊下を批判し、嘲弄する記述が載るようになりました。

およそ宗教人らしからぬ…

たとえば第9号には、学会サイドから入手したとする五十二年当時の宗門・学会の対談記録(むろん筆記したのは学会大幹部)とやらから、当時の教学部長であられた日顕上人猊下の御発言を引用し、その後に
「このように(学会に対して)屈じょく的な態度を続けていた方々が、新たに宗門執行部を形成されたからといって、急に変ることも難しかろう。だから当面は我々におまかせいただいて、宗務当局は静観していていただきたいと申し上げたのである。それを、あえて火中の栗を拾わんと乗り出され、まったく見当違いの御指南で、自らを傷つけられることは、おいたわしくてならない。
今日、宗門が、学会に対して対等以上にものが云えるのも、活動家と檀徒と、そして法華講の力があったればこそである。それを背景にものを云いながら、それに対して足げにするような態度は、およそ宗教人らしからぬといわれても弁明の仕様がなかろう」
等と述べています。
これについて一言すれば、御登座以前の日顕上人御発言――それも、学会側で筆記した記録より抜粋しているわけですから、実際に話された内容がどうであったのか、信憑性(しんぴょうせい)がありません――を挙げることによって、檀信徒の、日顕上人猊下に対し奉る信頼・尊敬を失わせ、むしろ猜疑心(さいぎしん)と失望感を懐かしむるのが目的であった、としか思われません。
そもそも、それまでいかなる年齢・立場にあられた方であっても、ひとたび宗祖御内証の法体を血脈相承されたならば、その時より、宗祖の御代管として僧俗大衆に血脈をいただかせてくださる〝大導師位〟につかれるのであるから、伏して尊敬申し上げねばならない、というのが本宗古来の伝承である筈であります。
しかるを、ことさらに御登座以前の記録――それも信憑性の不確かなもの――を公器たる新聞紙上に載せ、『このように屈じょく的な態度』云云などと卑しむことは、まさしく城者破者(じょうしゃはじょう)の行為であり、純粋な檀信徒の信仰を狂わせ、やがては大導師から離反せしめる下準備であった、といわれてもやむをえぬことと思います。
そのうえ、いかに口先で『おいたわしくてならない』などの言辞を弄しても、その日顕上人猊下に対する本心はあまりに明らかで、しらじらしい印象を免れぬのであります。
また、『今日、宗門が、学会に対して対等以上にものが云えるのも』云云のくだりですが、これとて、かつて「大客殿や正本堂を作ったのも私です。その私を大切にせずに……」などと発言された方の発想と大差ないように思います。以前、私達は、自らの御奉公を恩きせがましく誇るような者は増上慢である旨、現在の正信会僧侶方より、御説法いただいてきた記憶ですが――。
これでは『およそ宗教人らしからぬといわれれも弁明の仕様がなかろう』と思います。

反論と裏腹なその後の現実

こうした『継命』の論調を危惧(きぐ)し、覚醒運動の変貌を批判する声が、次第に宗内に高まりはじめたことは申すに及びません。それに対し『継命』第11号(55年2月1日号)では次のように反論しています。
「この際、明確にことわっておきたいことがある。我々は一部の悪意に満ちた人々のいうごとく、徒党を組んで宗内抗争を行うとか、御法主上人にたてつくことを目的としているのでは決してない。すでに第六十七世として、尽未来際(じんみらいさい)の宗門史に名を残される方の名誉は、すなわち日蓮正宗の名誉と歴史とともにあられることを充分認識した上で、大聖人の本義に照らして、真実お護りすることこそ弟子の道であると信ずるゆえの行動であって、他意はない。」
「我々が、かりそめにも、〝御法主上人を告訴する〟といった愚劣な論をなすはずがなかろう。こんなことで、三年間の生命がけの御奉公に泥をぬるような自殺行為をだれがするものか。策略で我々をおとし入れようとするような人物には、必ず仏罰が下るであろう。」
これよりわずか一年もたたぬうちに、『第六十七世として、尽未来際の宗門史に名を残される』日顕上人猊下に対し「六十七世を詐称(さしょう)したニセ法主」と誹謗し、『徒党を組んで宗門抗争を行』ない、あくまでも『御法主上人にたてつく』悪口中傷を続け、あろうことか『御法主上人を告訴するといった愚劣な論』どころか(裁判所への訴えを)実行に移している現実を目のあたりにして、いったい『必ず仏罰が下る』のはどなたの身の上か、考えれば考えるほど、恐ろしさに身の震える思いであります。

疑惑を懐く檀徒が続出

これによく似た話ですが、ある檀徒の方が「うちの御住職から、『必ず三月には正信会が勝つから安心せよ』といわれていたのに、三月の終わり頃になると『六月だ、六月になれば正信会が勝って決着がつく』と変わり、その六月をすぎてみれば『七百遠忌には皆さんは必ず登山できます。安心して闘いなさい』といわれて、もう正信会が信じられなくなった……」と語っておられました。
やはり、前言がくるくる変わり、指導されていたことと現実とがまったく相違してくれば、疑惑を懐く人々が現われてくるのも当然の道理です。それでも信じてついていく人が正信なのか、いちおう疑って正邪をたしかめてみようと思い立つ人が正信なのか、今さら申すまでもないことでしよう。
「大聖人様が、ちゃんと、その血脈をいただかせてくださる法主上人を決めておおきになったものを、何とかして認めまいとして頑張るから、凡夫勘定(ぼんぷかんじょう)でエライと思う先生や和尚(おしょう)をかつぎ上げることになるのだ。……まことに困ったことで、田中智学を信ずることを知って、大聖人を信ずることを知らぬ。大聖人様を信ずることを知って、大聖人様のお定めになった法主を『あれは凡夫じゃ』といって信じない。それでいながら、凡夫の偉い先生にハマリ込んで、その先生のいうことならば雪も墨と信じ切ってしまう。」
白を黒だといわれれば黒と信じ、黒ではなく赤だといわれれば赤と信ずる、そうした信仰態度はややもすると純真とも思えますが、じつは盲信、堕地獄の因に他ならぬのであります。

ついに異流義化への〝脱皮〟

昭和55年1月26日、総本山大石寺・大講堂にて開催された第4回檀徒大会の席上、『現況報告』として登壇された児玉大光師は、次のような興味深い発言をしています。
「53年の6・30や11・7は末端まで伝わってないではないですか、と質問しますと、北条さんは、それは今後ともひき続いてやっていきます、とおっしゃいました。実は、それは表向きのことなのです。裏では本山の七百年の歴史、ありとあらゆる七百年の出来事を調べてチェックし、状況いかんでは居直り、反撃しようとしていたのです。その証拠書類は、すでに我々が入手しております。私も見ました。ですから、我々は北条さんに、『どうぞ別れるときは、宗門のことをあれこれほじくり出して、なんとでも悪口雑言(あっくぞうごん)おっしゃってください。我々にとっては戒壇の御本尊と御法主上人、七百年の歴史があれば、充分あなた方と戦えるんだ。いつでもお相手します』とも申し上げました。」(以上、『継命』第12号より抜粋)
ここで、かの6・30の際に学会側が密かに用意していた〝宗門七百年の歴史をチェックした宗門攻撃のための極秘文書〟の存在と、それがすでに正信会側に入手されていることが明らかにされました。
この文書は、後に〝活動僧侶有志〟の名で『創価学会機密文書・宗門への質問状』と題する小冊子として活字にされていますが、私が前に「興味深い」と述べましたのは、この『宗門への質問状』の内容を踏まえたうえで、児玉大光師が「宗門のことをあれこれほじくり出して、なんとでも悪口雑言おっしゃってください。我々にとっては戒壇の御本尊と御法主上人、七百年の歴史があれば、充分あなた方(学会)と戦えるんだ」と断定されている点です。
ここには、たとえ七百年の宗史を調べ上げて作成した『宗門への質問状』といえども、本宗の正統法義に照らせば完膚(かんぷ)なきまでに破折できる、との確信が窺(うかが)われるのであります。
ところが、この『宗門への質問状』なる小冊子が宗内に出廻ってから時を経ずして、久保川法章師が『世界宗教への脱皮』を発表、これが、『正信会報』56年1月号及び『継命』第34号(56年2月1日号)等に大きく掲載されました。そこに述べられる血脈相承断絶の疑難、日精上人の造仏・読誦に関連した唯授一人血脈に対する疑難は、なんと驚いたことに、学会で作成した『宗門への質問状』の内容をそのまま底に敷いたものだったのです。
以前には「戒壇の大御本尊と御法主上人、七百年の歴史があれば、充分これと戦えるんだ」といって一蹴した『宗門への質問状』であったのに、ひとたび自分達が宗門・御法主上人と対立するや、今度はこれを宗門攻撃の武器として利用するのですから、これでは宗教者として、あまりに節操がなさすぎると思います。
また、その時その時の勝手な都合で、邪義が正義になったり、正義が邪義になったりするようでは、いったい何が正信会なのか、首を傾げざるをえません。
こういった行き方のなかに、結局は自分達の立場や考えを至上のものとして、それを押し通すためには白を黒とし、黒を白とするような、独善的で御都合主義な体質が感ぜられてならないのであります。
宗祖日蓮大聖人は、諸宗で立てる教義を批判されて、
「荘厳己義(しょうごんこぎ)の法門なり」(御書559㌻)
と仰せです。荘厳己義の法門とは、法門の道理を根本第一とするのでなく、自分達の立場や我意・我見を第一として、それを粉飾(ふんしょく)するために、その場その場の都合でほしいままに法門をもてあそぶ行き方をいいますが、『世界宗教への脱皮』の発表は、まさしく正信会路線が荘厳己義の法門へと陥(おちい)った証明、といっても過言ではないでしよう。
ともあれ、この『世界宗教への脱皮』において、本宗七百年の血脈観に異説をさしはさみ、御当代日顕上人猊下の血脈を否定したことによって、正信覚醒運動ははっきりと異流義化への道をとりました。そして、内外の多くの賛同者を失うと同時に、宗内を泥沼のような混乱へと引き入れたのであります。
結果として、覚醒運動は行き詰まりの様相を呈(てい)し、明らかに興から亡への段階を迎えました。その状態をもてあましてか、『継命』第50号(56年10月1日号)に掲載の児玉大光師の寄稿では、
「久保川論文にしても……論文というよりは、自坊での御説法の原稿である。百歩ゆずって間違っていたとしても、御説法を間違えるたびに擯斥(ひんせき)ではたまったものではないが、それが全国檀徒機関紙に掲載され、あたかも『御戒壇否定』と受けとられたのは、誠に遺憾(いかん)である。……これでは末寺住職はおちおち御説法も出来ぬし、機関紙にも危なくて投稿(とうこう)もできぬ」
等、久保川法章師の論文はあくまでも個人的見解を述べたものであって正信会の公式見解ではない、というような印象付けがなされています。
しかしながら、久保川論文は『全国檀徒機関紙に掲載され』て、当時、多くの檀徒の学習教材にまでなっていたわけですから、〝今さら〟という感は禁じえません。
大聖人は、
「わざわいは口より出(い)でて身をやぶる」(御書1551㌻)
「千年のかるかやも一時にはひとなる。百年の功も一言にやぶれ候」(御書1183㌻)
等と仰せですが、まさしく、久保川論文の発表はあまりに軽率(では済まされませんが)がすぎたというべきでありましよう。

無節操な血脈否定への経緯

ここで、御当代日顕上人猊下の血脈に対する誹謗について、一言しておきたいと思います。
申すまでもなく御当代日顕上人猊下は、昭和五十四年七月二十二日、御先師日達上人の御遷化に伴い第六十七世の法燈(ほっとう)を嗣(つ)がれ、御登座あそばされました。
正信会と称する僧侶方が日顕上人猊下の御相承を云々しはじめるのは、これより一年半も後のことですが、すでにこの当時、御相承に疑義をはさむ一部の不心得な人々があったようです。当時の週刊誌には
「阿部日顕新法主は、この血脈相承を日達上人から昨年(※昭和53年――筆者註)4月に受けていたといわれる。ところが、それに『異議あり』と、宗門内の僧侶の一部の間で疑問が出されているというのである。
疑義を唱えている僧侶の言い分によれば、相承があったというにしては、宗門の慣習にのっとっていないのだそうだ。(略)相承があったことを発表するパターンは、〝何年何月何日何時より何時問にわたって、御金口嫡々(こんくちゃくちゃく)と相承の儀が行われ……〟という言い方があるが、今度の椎名重役の発表はそうなっていない」
等の記事が掲載されています。
要するに、御先師日達上人から日顕上人猊下への血脈相承の経緯が、たとえば六十四世日昇上人から日淳上人へ、あるいは日淳上人から日達上人への場合のように、前御法主上人の御存生(ぞんしょう)中に御相承の儀式が行なわれ、ただちに広く宗内に公表される、という経緯とは異なっていたために、こうした疑心暗鬼(ぎしんあんき)が生じたものといえましよう。
しかしながら、こうした疑惑の声は、あくまでも一部の僧俗の間の、それもごく一時的なものに止まりました。それは、現在の正信会僧侶方を含む宗内のほとんど全僧俗が、日顕上人猊下を第六十七世御法主上人として拝し奉っていたことと、前のごとき疑義では、とうてい御相承を否定する根拠たりえないことを熟知していたからに他なりません。
現に、日顕上人御登座一ヶ月後の8月25日に行なわれている第3回檀徒大会では、荻原昭謙師が『諸注意』として御相承の問題にふれ、
「最近、某週刊誌に某檀徒の発言といたしまして、血脈相承の問題、また恐れ多くも御法主上人猊下に及び奉ることがらを、得意になって云々している記事が目につきました。私ども指導教師といたしまして、顔から火が出るほど恥ずかしく、また、たいへん情けない想いをいたしました。これは、もはや檀徒でもなければ、信徒でもありません。(略)
御戒壇様、大聖人様の人法一箇の御法体を血脈相承あそばす御法主、代々の上人を悉(ことごと)く大聖人と拝し奉り、その御内証(ないしょう)・御法体を御書写あそばされたる御本尊に南無し奉るのでございます。
これに異をはさんで、なんで信徒と申せましよう。また、なんで成仏がありましょう。師敵対、大謗法の者でございます」(『第3回檀徒大会紀要』より抜粋)
とまで断定しているのであります。
ところが、その後一年半の経過のなかで、前にも述べたような宗門との種々の不協和、対立が生じ、55年9月24日には宗門より正信会僧侶方に対する懲戒処分があって、正信会は真正面から宗門と対峙(たいじ)するに至りました。そのあげく、同55年末から56年初めにかけて、ついに正信会は日顕上人猊下の御相承を否定するという暴挙にでたのです。
いったい、御登座から一年半もたってから御相承を疑うなど、とてもまともな思考では理解できません。もし、本当に御相承が疑わしいというのなら、何故、54年7月の時点で言いださなかったのでしようか。
ましてや、54年の時点では、前に挙げましたように、血脈否定の輩(やから)を師敵対の大謗法と断じているのですから、ますます理解に苦しんでしまいます。
また、一年半の間に、日顕上人猊下の御相承を否定せざるをえないことでもあったのかといえば、『継命』第36号(56年3月1日号)紙上で佐々木秀明師は、
「一年数ヶ月、法主として登座の既成事実があれば、それが正しく揺るぎないもののごとき発言は、信心の道理を本とした宗門人の考え方とは程遠い。この間、(創価学会問題についての)質問状、抗議書、御伺い書、また在勤教師会の御伺い書等、宗門を真に憂う僧侶の訴えに、阿部師ならびに当局は知らぬ存ぜぬの姿。信心の上からも、もうこれ以上は忍耐の限度、と立ち上がった……」
と述べています。ここに明らかなとおり、学会問題に関する意見・方針のくい違いや、自分達の非礼な質問状に答えていただけぬことによって、最初は自分達も〝ある〟と認めていた血脈を〝なかった〟ことにしてしまったわけで、まったく『信心の道理を本とした宗門人の考え方とは程遠い』呆れはてた考えてあります。
なお、『継命』臨時増刊号(56年1月22号)には、『日顕上人に相承なし』との見出しで、 「山崎正友氏が、昨年11月20日号『週刊文春』誌上で日達上人御遷化をめぐる具体的状況を描(えが)き、はじめて日顕上人相伝に対して疑義を指摘、一挙に問題化した。
これを受けて正信会では、昨年12月13日付で日顕上人に、相承の有無をただす質問状を期限付で送った」 等、あたかも日顕上人猊下の御相承を否定する新事実が山崎正友氏より公表され、それによって正信会も御相承問題をとりあげたかのごとく述べております。
しかしながら、山崎氏が述べた内容も、正信会が御相承に対する疑義として挙げた内容も、おおむねは54年7月当時に一部で囁(ささや)かれた疑惑と変わりがありません。
要するに、かっては自分達も用いなかった、血脈否定の根拠にすらならぬ根拠を、一年半もたってから言葉巧みに引っ張りだし、さも一大不詳事が発覚したかのごとく騒ぎたてたのであります。
こうした経過を見るとき、自らの意にそわぬ御法主上人であれば、その血脈を否定してでも排除しようとの、正信会の恐るべき体質が浮き彫りにされてきます。

正信覚醒運動の変遷 5.変貌の底に潜む狙い

正信覚醒運動の変遷、それはこれまでに述べてきましたとおり、当初の、創価学会の逸脱を是正(ぜせい)していくという路線から、現在の宗門・日顕上人猊下を否定せんとの路線への変貌、といえましょう。
『継命』第30号(55年11月15日号)には、佐々木秀明師の『現況報告』として、
「この運動(※正信覚醒運動)の最終結着は最初に申し上げた通り、日顕管長以下執行部の退陣ということでなければならないと思います。……阿部執行部、池田・北条執行部の退陣と、新しい管長を選挙で推戴(すいたい)して、第七百遠忌を迎えましょう。さもなくば日蓮正宗はなくなってしまいます」
と述べられていますが、ここに、変質した正信覚醒運動(正信とは、もはや呼べぬでしようが)の路線・目標が明確に掲げられています。
しかしながら、これより一年を経て、第七百御遠忌大法会も日顕上人猊下大導師のもと、恙(つつが)なく奉修され、いまや「新しい管長を選挙で推戴して七百御遠忌を」という正信会の目標も、また「七百御遠忌には決着がつき、大法会は正信会と檀徒の手で奉修しますから安心してください」等の檀徒への約束も、悉く不履行に終わってしまいました。
その結果、全国檀徒の間には次第に深刻な不安が拡がり、各地で、檀徒の正信会離れという現象が生じています。

来たるべき大不祥事の危倶

この現実に焦りを感じたのか、『継命』第51号(56年10月15日号)一面には、とうとう、
「日興上人が……血涙(けつるい)をもって身延を離山された御心を拝し奉る時、今の本山には既(すで)に大聖人、日興上人の御魂は住まわれずと断ずるものである」
との、恐るべき檄(げき)が掲載されました。
そもそも『大聖人、日興上人の御魂』とは、
「日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ、信じさせ給へ」(御書685㌻)
との大聖人の御金言、また
「日興が身に宛(あ)て給わるところの弘安二年の大御本尊」(聖典519㌻)
との日興上人御教示を押すれば明瞭なごとく、『大聖人、日興上人の御魂』すなわち宗旨の三秘の根源をなす弘安二年の本門戒壇の大御本尊であります。
しかるを、『今の本山には既(すで)に大聖人、日興上人の御魂は住まわれず』というなら、それは大御本尊まします総本山の意義を根底から否定するものといわざるをえません。
ましてや、『日興上人が……血涙をもって身延を離山された御心を拝し』等と、日興上人身延離山をからめるとき、日蓮正宗富士大石寺からの離脱!? という、あってはならぬ一大不祥事の惹起(じゃっき)が危倶(きぐ)されるのであります。
正信会の僧侶方及び檀徒の方々は、よく教義の厳正保待を口にされますが、教義の厳正保持は法体(大御本尊と血脈)を護り、正しく伝えるためにこそ必要なのであり、もし唯授一人血脈と大御本尊から離れたならば、まったく泡沫(ほうまつ)のように無意味な論議となるばかりか、堕獄必定(だごくひつじょう)となる筈です。
また、「心中に自受用報身如来を拝信しておれば、総本山と離れても、即身成仏の血脈は流れる」とでもいうのでしたら、過去に異流義化して分立していった堅樹派(けんじゅは)、あるいは分派独立の兆(きざし)の見えた学会五十二年の路線とも、たいした変わりはなくなってしまうでしょう。
いずれにせよ、そうした最悪の事態が訪れぬよう、ひたすら祈る以外にありません。

〝一部の方々の野心〟とは

さて、『継命』第52号(56年11月1日号)には、正信会々長・久保川法章師の『指導』として、
「本山の御遠忌法要を、大謗法者である池田大作と偽貫主(かんず)阿部日顕一党の土足に穢(けが)された……仏法の大怨敵となっている池田創価学会と阿部日顕らの存在するかぎり、精魂を傾けて覚醒運動を続けていかなければなりません。……この二人を徹底的に破折し、撲滅(ぼくめつ)すべく全力を尽(つく)す処(ところ)に、善知識としての意義が存在するし、我々の成仏もある」
と、以前にも増して激越(げきえつ)な調子で、覚醒運動の目的と、その完遂を促(うなが)しています。
おそらく、この運動に携わる人達に尋ねれば、「我々は日達上人の仰せどおり闘ってきたし、日顕上人にも師弟の礼を尽くしてきたが、日顕上人は法義を曲げてまで謗法の学会をかばい、我々正信の僧俗を弾圧した。だから我々は日顕上人の退座に至るまで闘い抜くことにしたのだ」というのでしょうが、はたして事実は本当にそうでしょうか。
私は、前に「関係者各位の証言、そして状況証拠を総合してみるとき、やはり正信覚醒運動は、当初から何らかの野心をもち、日達上人の御意にも背反していた一部の方によって推進されてきた」と述べておいたわけですが、ここで『一部の方』のもっていた『何らかの野心』がいったい何であったのか、『関係者各位の証言』にそって明らかにしていきたいと思います。
まず、昭和54年の4月、総本山大奥において、千葉県一月寺の笠松澄道御尊師が日達上人にお目通りされた砌、談たまたま活動家(現・正信会)僧侶方のことに及び、日達上人は、
「あの者達は、私を猊座から引きずり降ろそうとしているんだ」
と仰せられたとのことです。
その時、笠松御尊師は「いったい、そのようなことが……」と、たいへん驚かれたそうですが、それより一ヶ月後、差出人無記名の怪文書が宗内に出廻わり、その内容が、
「大謗法を行なった池田総講頭を名誉総講頭とする猊下の裁断も大謗法である。……大御本尊様を偽作した者を完全に処罰できぬは謗法行為。……許し難いこの謗法行為を学会に許し、今日の混乱をまねいたのは、細井日達猊下の身の罪に非ずや。……ゆえに、細井日達殿は速やかに猊下を退(しりぞ)くべし」(『暁鐘』第18号参照)
という趣旨であったことを思うとき、笠松御尊師の伺ったという日達上人お言葉が、まことに真実性をもって感ぜられるのであります。

「私が猊下になって…」!?

また、これは55年秋になってのことですが、正信会僧侶方に対する懲戒(ちょうかい)処分のあった直後、妙真寺(当時、覚醒運動のセンター)で行なわれた勉強会において、『撰時抄』に関する檀徒からの質問に対し、山口法興師が
「それは、私が猊下になってから教えてあげよう」
との驚くべき発言をされた旨、参加していた複数の方々から聞き及んでいます。
いったい、本気であったにせよ、なかったにせよ、こうも軽々しく「私が猊下になってから」などという言葉が、覚醒運動のセンターと称されていたところから飛び出すのですから、御遷化間際の日達上人がすでに「あの者達は、私を猊座から引きずり降ろそうとしている」と感ぜられていたとしても、まったく不思議ではありません。
その他にも、54年の2月、私どもが日達上人より
「学会の誤りを責めてきた僧侶の中にも、私の言うことが間違っているとか、聞くと危険だとか、陰でいろいろ言っている者がいるようです」
と伺っていること、また同7月には、理境坊住職・小川只道御尊師が
「どうも正信覚醒運動の方向性がおかしい。やがては総本山にも矢を向けることになりそうだ。もし、あのメンバーに入っているのなら、今のうちに脱けておきなさい」
との御指南を賜(たま)わっていることを考え併せてみますと、やはり私は、笠松御尊師の記憶されている日達上人お言葉が、たしかにあったものと信ずるのであります。
それにしても、「私が猊下になってから云々」などとは、なんと恐ろしい感覚でしょう。名聞名利の執情(しゅうじょう)を離れ、純粋に師にお仕えしていくところにこそ、仏道修行がある筈でありまして、こうした言葉を思いつくこと自体、日蓮正宗を信仰する者としては考えられぬ発想であります。

また、山口法興師は右発言と同時期、やはり妙真寺において、十五、六名の壮年檀徒の方々の前で、
「裁判には必ず我々が勝つのであるから、本山に謝る必要などない。我々が勝った暁には、日蓮正宗に貢献したものとして、(僧階を)三階級特進しなくては割が合わない」
などと発言され、居合わせた方々を唖然とさせたそうですが、まったく、あまりの内容に開いた口が塞(ふさ)がらぬ想いです。
ここまでみてきますと、覚醒運動を当初から推進してきた〝センター〟なるものの実態、そして『一部の方』の懐(いだ)いていた『何らかの野心』がいかなるものであったのかは、あまりにも明白で、これ以上の説明は必要としません。
また、こうした『一部の方』ほどではなくとも、これに追随して覚醒運動を進めてこられた僧侶方の中には、日達上人の御弟子でありながら、「もう日達上人には浮世(うきよ)の義理は果たしたから」(これは日達上人御存生中における某師の発言)とか、「我々は日達上人の代の頃から、すでに猊下の言うことなど聞いていませんでしたよ」などと発言された方がおられることも確認していますが、まことに無念で、悲しくなってまいります。
檀徒の方々の多くは、今でも、正信会の全僧侶方が日達上人をお慕いし、日達上人の仰せどおり闘ってきたものと、純粋に信じているのでしょうに……。

覚醒運動の悲劇、浮き彫り

いずれにせよ、ここに正信覚醒運動の変遷してきた経緯、否々、というよりもむしろ、これを推進してきた一部の方々が当初より懐いていた狙い、そして、それに引きずられて今日のごとき泥沼状態にまで立ち至ってしまった覚醒運動の悲劇が、浮き彫りにされる想いであります。
そして、こうした経緯を振り返ってみますと、正信会で引き起こした『管長の地位不存在裁判』とても、実際に血脈相承があったか、なかったかというような、信仰上の問題などではなく、ある方々にとっては自己の野心達成のための手段であり、また他の方々にとっては、自らの運動の障害となる御法主上人を退けんとの闘争手段、あるいは自らが受けた懲戒処分を無効にせんがための保身の手段である、と考えざるをえません。

この、まるで政治的ともいえる黒い闘争に引き込まれた檀徒の方々の中からは、すでに正信会を去って従来の法華講に移った者、本山からも寺院からも離れて一人だけで信心をはじめた者、ついには大御本尊をも疑って退転していった者等が続出しておりますが、もはや裁判の結果がどうあれ、こうして、尊い大聖人の仏法と純真なる人々につけた深い傷は、容易には拭(ぬぐ)えないでありましょう。
また、現在も続いている正信覚醒運動(というよりも正信会活動といった方が妥当でしょうが)を、一日も早く停止せしめ、正常なる路線に戻さなければ、さらに多数の犠牲者と一大不祥事を生ずることが危倶されます。
そして何よりも、これ以上、宗祖日蓮大聖人の未曽有の大法を下げしめたならば、大聖人はいかばかり御悲しみになられることか、それを心より恐れるものであります。

正信覚醒運動の変遷 6.蘇生への道

そもそも正信覚醒運動は、創価学会の教義逸脱を糺(ただ)すところからスタートしておりますので、どうしても学会問題を抜きにして、すべてを論ずることはできません。
したがって本稿の結びにあたり、現時点で学会の問題をどう捉えるかという点につき、少々述べてみたいと思います。

創価学会問題をめぐる経緯

昭和52年をピークとする創価学会の従来の路線のなかに、さまざまな行きすぎ、正宗教義からの逸脱、謗法があったことは、何人も認める現実であります。
これに対し、宗門より再三にわたる指摘がなされた結果、いわゆる53年の6・30、11・7、54年の5・3等、不誠実な点はみられたものの、いちおう学会は宗門に陳謝し、教義の逸脱(謗法)を改めていく旨、表明したわけです。
御先師日達上人は、学会が同じ誤ちを繰り返さぬならということの上で、「大きな心で学会を受け入れ、今後の動向を見守っていく」旨を御指南あそばされ、覚醒運動の終結を命ぜられました。
それ以後、今日に至るまでの学会をみますと、いまだ不審に感ぜられる部分もありますが、機関紙誌の上にも、かつてのような大御本尊軽視、血脈否定、僧俗同格論、宗門軽視等々の指導は載らなくなり、法義からの逸脱を推進することはなくなったようです。
したがって、学会総体としては、いまだ同じ誤ちを繰り返していませんが、会員の間ではいまだに五十二年路線の誤りに気付いておらぬ人や、堂々と会長本仏論を述べる人があったり、また「学会にも池田先生にも、やはり一点の誤りもなかった」などと指導する幹部もいたりで、反省悔悟(かいご)が徹底しておらぬことは事実であります。
しかし、だからといって「学会には一分も反省懺悔がなく、やがて同じ誤りを繰り返すことは明白であるから、今のうちに断固として学会を処罰すべきだ」とまで決めつけるのは、どうかと思います。
といいますのは、学会員の間に反省悔悟が徹底しておらぬとはいえ、いちおう学会執行部としては公式に宗門に陳謝し「誤りを改めていく」旨を誓って今日に至っているからです。
後は、学会執行部の懺悔の志が本心からのものであるか、否かという問題になってきますが、人の心の中のことを凡夫が確答できよう筈もなく、真実をお見通しなのは御本尊の御仏智だけてあります。

信仰の根本は仏智を信ずる

第九世日有上人の『化儀抄』には、
「同朋(どうほう)門徒中に真俗(しんぞく)の人を師範(しはん)に訴う時、ささえらるる人、起請(きしょう)を以って陳法(ちんぽう)する時は、免許を蒙(こうむ)るなり、然(しか)るに支(ささ)えつる輩(やから)は誤りなり、仍(よ)って不審を蒙る間、是(こ)れも又起請を以って堅く支えらるる時は、両方且(しばら)く同心なきなり、何(いず)れも起請なる故に仏意(ぶっち)計り難し、失(あやまち)に依るべきか云云」(聖典974㌻)

すなわち、
「同門の中で、僧侶や信徒を何らかのことで師匠(御法主上人)の方へ訴えた場合、訴えられた側が、仏前に誓って偽わりのない起請をもって、事実そのようなことがない旨を師匠に誓うならば、その者は処分されることなく許される。そうすると、訴えた側が間違っていたのかということになって、他の者からいぶかしく思われるが、こちら側もまた起請をもって訴えに誤りがない旨を誓うならば、主張が相対立することになる。この場合、双方とも起請をもって仏様に誓って言い張っているのだから、もはや御仏意にお任せする以外にないのである。さすれば、いずれか一方の誤りが(いずれか一方に仏罰が)顕われ、明らかに裁断されるのである」
と仰せであります。
御先師日達上人が、「学会を受け入れつつ、今後を見守っていく」と仰せられ、覚醒運動の中止を命ぜられたのも、また現御法主日顕上人猊下が御先師の意志を継承せられたのも、推するも恐れながら、御仏智にすべてをお任せするという、日有上人御指南に基づかれた正当な御裁定であると拝するものであります。

ゆえに日顕上人猊下は
「私は、皆さんに〝仏智〟ということを信じていただきたいと思います。……この仏智ということは、凡智・凡見(ぼんけん)で伺い知れないのが仏智なのであり、そこに仏法における、信解の難しさがあるのであります。……日蓮正宗の歴史において、そこにさまざまの形はあったとしても、一貫して流れる〝仏智〟というものを、お互いに信ずることが信仰の根本であると思います。それを忘れたならば、宗門の僧侶ではありません」(昭和55年7月4目のお言葉)
と仰せられ、かつまた、
「私は、今日このところにおいて〝一切を収める(覚醒運動を終結する)べきである〟と、皆さんにはっきり申し伝えるものであります」 (同お言葉)
「もしも(今後)信仰的に創価学会が独立するというのならば、独立してもらえばよいということです。そのときには我々は、法主が陣頭に立って、徹底的に創価学会の全体を折伏して、改めて大折伏戦を日蓮正宗から展開すればよい。……創価学会が本当に御戒壇様から離れ、本宗から離れて、仮りに〝お光さん〟のようなものを作り出して、それを信仰するということになったならば、そのときこそ断固として折伏すればよい」(昭和54年10月10日の御言葉)
等々と仰せられています。

人智を基に宗門を誹謗

御仏智を信じ、一切をお任せする――まことに宗教的な解決法と申せますが、これに対し、あくまでも学会報行部の内心を推断し、処罰すべきであると主張し続けているのが今日の正信会路線であり、これは御仏智よりも、むしろ人智を基にした行動といわざるをえません。
しかして、自らの主義主張を押し通すべく、宗門・御法主上人をも誹謗し、あくまでも改める意志を持たぬばかりか、その誹謗はエスカレートして止まるところを知らぬわけですから、まさに五十九世日亨上人御指南のごとく、
「たびたび訓誠(くんかい)せられても、ガンとして改心せぬのが大謗法」(『日蓮正宗綱要』より) であって、ついに宗門より懲戒処分が発せられるに至ったのであります

眼前せる謗法は厳しく破折

また、誤解なきよう付け加えておきますが、覚醒運動の終結といいましても、それはあくまでも
「いまだに『学会は大謗法の団体である』とするのは大きな誤り」(日顕上人猊下御親書『宗内檀徒の皆さんへ』)
であるとの意でありまして、学会総体を「謗法の団体」と決めつけて責めるような運動を終結する、ということであります。
もし万が一、謗法を謗法と気付かず、いまだに52年当時のような会長本仏論、血脈否定、僧俗同格論などを主張する会員や、「学会には一点の誤りもなかった」などといって、6・30、11・7、5・3等での反省を無にするような言動を見聞したときには、すでに
「眼前に同信の人々の謗法行為を見聞した場合においては、即座に厳然と破折し善導すべきであり云々」
との院達も発せられているわけですし、また日顕上人猊下も
「〝創価学会を攻撃、誹謗する僧侶達が処分されたのは、創価学会に誤りがなかった証左であり、指導者にも誤りなどはなかったのである〟などといってはなりません」 (『暁鐘』第35号)
「それぞれのところで何かがあったら、すぐに支院長に知らせる。支院長はまた、地方協議会において地元の人々によく注意する、と同時に宗務院にも連絡をする。それらを全部吸収して、宗務院はまた、これでもか、これでもかと、創価学会の中心者である大幹部に対して指示してまいります。そして、根本的になおしていくべきところは、なおしていかせようではありませんか」(昭和55年7月4日のお言葉)
等と仰せられているわけですから、そのつど、そのつどに厳然(げんぜん)と破折・善導し、宗務院に報告申し上げていけばよいのであります。
こうした総本山の方針が、正信会でいうような「謗法を容認している」ことになどなろう筈もな。く、むしろ、御仏智への〝信〟を根本にして、眼前せる謗法は破折していくという、正当な解決法であると拝信する次第です。
したがって、「せっかく進めてきた運動を止めることはできない」とか、「完全勝利して殊勲者と認められなければ気が済まない」あるいは「学会を完全に屈伏せしめなければ気が収まらない」 「ここまで激しく学会を呵責してきたのだから今さら引っ込みがつかない」等々といった不純な執着心がないのでしたら、ここはやはり小異を捨てて大同につく潔さをもって、宗門のもとに一結すべきでありましょう。

師弟子の秩序を守って

なお、最後になりましたが、本宗の信仰は、本師(大聖人、日興上人以来御歴代上人)――手続(てつぎ)の師(直接の師たる末寺御住職)――信徒という、師弟の筋目に則った信仰であり、これを破り逸脱するところから種々の誤りが生ずるものといえます。
ゆえに日興上人は、『佐渡国法華講衆御返事』に
「この法門は、師弟子を正して仏に成り候。師弟子だにも違い候へば、同じ法華を持ちまいらせて候へども、無間地獄に堕ち候也。うちこしうちこし直(じき)の御弟子と申す輩(やから)が、聖人の御時も候いし間、本弟子六人を定めおかれて候。その弟子の教化の弟子は、それをその弟子なりと言はせんずるためにて候。案のごとく聖人の御後も、末の弟子どもが、誰は聖人の直の御弟子と申す輩多く候。これらの人謗法にて候也」 (歴代法主全書1巻83㌻)
と、また六十五世日淳上人は、
「その後(大聖人の御入滅後)のことは、日興上人を師と仰ぎ、師弟相対して相承し給い、大衆は各々また師弟相対して相承していくのが仏法の道である。内証の上には大聖人の御弟子であることはもちろんである。といって内証(ないしょう)のみに執して(いくのでなく)、師弟の関係を整へることがもっとも大事であって、これを無視するところに聖祖門下の混乱があり、魔の所行が起こってくるのである」 (日淳上人全集1325㌻)
と、いずれも師弟の筋目を整えるべきことの大切さ、また師弟の筋目を無視するところに魔の所行が起きることを厳しく御指南あそばされているのです。
しかるを、正信会なる団体を組織し、そのなかに会長等の役員を置いて指導系統のようなものを作りますと、自覚の有無に関わらず、自ずと本宗の秩序(師弟の筋目)と異なる別個の師弟の道ができあがってまいります。
ここに、すでに宗門との対立や、種々の誤りを生みだす温床があるのではないでしょうか。
むろん、これは〝信徒の全国組織のあり方〟にも関連する問題であり、さらに考えねばならぬ点は多いと思いますが、ともかく今日のように変質してしまった覚醒運動を蘇生するためには、これまで述べてきたような一部の方々の狙いと、運動の自己矛盾を明らかにすることはもとより、まず正信会なる組織を解消することが不可欠な要件であると考えます。
そして、宗門の師弟の筋目の中に立ち還って、それぞれの立場で、眼前にした謗法を破折・善導しきっていくならば、創価学会の体質改善も本当に徹底していくのではないか、と思うのであります。
分も弁えぬ意見を述べてしまいましたが、要は、一日も早く宗内が穏やかになってほしい、との願いと御理解いただけたら幸いです。
以上、〝正信覚醒運動の変遷〟と題して、現今の問題につき縷々述べてまいりましたが、読者諸賢の御批判・倒叱正のほど、よろしくお願い申し上げて擱筆いたします。

正信会を脱会した体験談
Y・Aさん (男性・34歳)

私は、平成16年5月に正信会を脱会し、妙観講に入講することができました。
私は、昭和35年、友人のすすめで、創価学会を通じ、日蓮正宗に入信しました。
私の住まいが静岡県伊東市にあるため、普段は、伊東市の宝地寺に参詣しておりました。しかし、正信覚醒運動の際、宝地寺の住職であった猪俣法智が宗門から破門となり、私は、猪俣の言われるままに従い、ついて行ってしまいました。
私は、いつかまた日蓮正宗に戻り、戒壇大御本尊様を拝める日が必ず来る事を信じていました。しかし、20数年が経ってもその日はきませんでした。
私は、いちおう折伏も行ない、最初はそれなりに信心をしているつもりでしたが、平成6年、突然くも膜下出血で倒れてしまいました。何とか一命を取り留めたものの、左半身不随となり、また、全身のいたるところに悪い血液がたまる症状が現れるようになりました。
血液がたまってくると、激しい痛みが起こり、その痛みを取るため、血液を抜くという事を繰り返してきました。
私は、くも膜下出血で倒れても、仏罰であるとは思いもしませんでした。しかし、それからは、だんだん信心にも歓喜がなくなってきました。
また、住職の猪俣は、気にくわないことがあると、信徒にでも平気で怒鳴り散らすという、非常に傲慢な人でした。このような住職ですから、誰も住職を慕う者はおらず、普段の御講も義理で2,3名が参詣する程度という悲惨な状況でした。
また、ある時私が、教学についての質問したところ、自分では答えられないようで、何と、「そんなことはインターネットを見れば出ている」という呆れた返答が返ってきました。このようなことが重なり、私はどんどん住職に対する不信感がわいてきました。
また、私は、宝地寺の総代をさせていただいておりました。他にも御二人の方が総代をされていたのですが、猪俣は、信徒同士の横の連絡をとらせないようにするためか、講員名簿を自分でしまい込み、一切我々には見せてはくれませんでした。
そういうわけで、お寺の信徒の氏名、人数もわからない、また、総代同士は名前は知っているものの、住所、電話番号を知らないという、信じられなうような状況でした。

そのような中、本年4月、不動産の仕事をしている Aさんが、たまたま、私の家の隣の建て売りの件でこられ、そこで長年気にかけていた、隣の境が私の土地に食い込んでいる件をお話ししました。 すると Aさんは、快く、隣との境を元に戻してくださる、ということになり、一気に長年の問題が解決してしまいました。
そこから話が弾み、Aさんが日蓮正宗の信徒であることを知り、今まで抱えていたいろいろな疑問を聞いて行き、大石寺が正しいということがわかりました。しかしその時は、自分の中で、大石寺を実際にこの目で見手から脱会したいという思いがあり、その事をAさんにお話すると、快く承諾していただきました。
5月に入り、その日がきました。当日、大変お忙しい中を、私のために大草講頭がわざわざお時間をさいてくださり、大石寺まで来てくださいました。講頭のお話をお聞きし、疑問はすべて晴れ、また、清浄な総本山を目の当たりにし、すっきり、正信会を脱会し、念願であった日蓮正宗の信徒に戻れる事ができたのです。
翌月には御開扉を受けさせていただく事ができ、20数年間求めていた戒壇の大御本尊様にお目通りし、心から感激し、全身が身震し、涙が溢れ出て来ました。
その後は、講中、支区の会合にも参加させていただく中、日蓮正宗が真実最高の教えである、との確信がそのつど深まってきました。また、自らの罪障消滅のため、Aさんや他の先輩にも手伝っていただき、縁ある学会、正信会、一般の知人の折伏を行なっていきました。

私の家族は、結婚をし、それぞれ独立している息子、娘が、おります。それぞれの家族全員を私が正信会に入れてしまっておりました。まず最初に5月に息子を脱会させることができました。しかし、娘は、学会、正信会と訳のわからないまま、父親である私に言われるままに、転々としてきたことに不信感をもっていたようで、そのことで、まだ、脱会することができておりません。今、私は、一刻も早く、家族全員が正宗に戻れるようにご本尊様に御祈念しております。
しかし、折伏を実践させていただく中、病気の方もだいぶ回復してきました。それは、全身に溜まる血液が減っているのでしょう、脱会する以前と比べると、血を抜く回数が着実に減ってきました。また、左半身付随の方も、普通の生活にほとんど支障がないほど回復してきました。
そして、日々の生活に歓喜が蘇ってきました。
今、振り返り、思いもよらない不思議な形で、日蓮正宗に戻ることができたことは、本当に御仏智であると、大御本尊様に心から感謝申し上げます。このご恩をお返しするため、また、自ら作ってきてしまった重い謗法の罪を消し果てるため、しっかり折伏を実践し、精進してまいります。