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体験発表<令和5年 第45回総会より>猛烈な折伏で、求めずして得られた幸福境涯

金森 浩明さん

皆さん、こんにちは。福岡県在住の金森浩明です。私は、二十四年前に折伏されて入信し、有り難くも御本尊様より多大な功徳をいただいてまいりましたので、発表させていただきます。

私の実家は、先祖代々、浄土真宗の檀家でした。その害毒によるものでしょう、父親は、五十歳の時に筋萎縮性側索硬化症という難病を発症し、頭はしっかりしているものの、首から下がピクリとも動かない、寝たきりの状態になってしまいました。それ以来、父は病気を治したい一心で、崇教真光や中山身語正宗など、知人が勧める新興宗教に端から関わるようになりました。そして、そのたびに私たち家族も父親と一緒に得体のしれない宗教に入信することになりました。しかし、父の病状は一向に改善することはなく、挙げ句、詐欺にまであってしまったのです。

私は大学を卒業後、高校の体育教師になって野球部の指導をしながら、母と共に父の介護をしていたのですが、宗教にはすっかり幻滅(げんめつ)していましたので、父に向かって、「俺が面倒を見るから、もう宗教には関わらないでほしい」と訴えました。しかし父も母も妹も、ずっと邪宗に関わり続けていました。

現在の妻である江美班長と知り合ったのは、その頃のことでした。妻は私を折伏しましたが、全ての宗教に嫌悪感を抱いていた私は、一途(いちず)に日蓮正宗を信じている妻を、むしろ気の毒に思ったほどで、まったく素直に話を聞けませんでした。しかし、何度となく折伏されていくなか、最終的には私が折れて日蓮正宗に入信することになりました。平成十一年四月、三十一歳の時でした。

入信当初は形だけの信心で、疑いの心ばかり起こしていた私ですが、この仏法は本物だと確信できるようになったのは、自分の身に現われた現証によってでした。ある日、あまりの体調不良に病院に行くと、血圧が二一〇もあり、医師から「なんで、こんなになるまで来なかったのですか。死んでもおかしくないような数値です。今までずっと身体がキツかったでしょう」と言われました。そして検査の結果、慢性腎不全だということが判明したのです。振り返ってみれば、それまでの私は、父の介護で毎日の睡眠時間が二時間程度しか取れておらず、そうした長年にわたる無理がたたって腎不全を起こしていたのでした。

腎不全とは、腎臓の機能が低下して正常に働かなくなる病気で、私の場合は、すでに人工透析を選択するしかないほど悪化しており、それも一回に五時間かかる透析治療を、一日おきに週三回も、仕事が終わってから受けなくてはならないほどの重症度だったのです。

その時、妻は、担当の医師から、

「透析のために同じ場所に何度も針を刺していくことで、血管がボロボロになっていきます。抵抗力も弱くなるので、他の病気にかかると重症化するリスクが高く、合併症によって早死にすることも考えられます。しかも金森さんの場合は、血管がすでに一部石灰化しているため、余命は、長くて十年です。覚悟しておいてください」

と余命宣告されたそうです。そのことを妻は私には隠していました。いずれにしても、三十二歳の若さで一日おきに人工透析では、体育の教師も野球部の監督もまともに勤まるはずがなく、私は目の前が真っ暗になって、妻に対しても「日蓮正宗に入ったのに、透析になったやないか!」と当たり散らしてしまいました。

いざ人工透析を始めると、透析後に血圧が低下して気分が悪くなり、それを改善するために処方された薬が体に合わず、日常生活でも立っていることすらきつくなる、ということが続きました。そのような中のある日、いつもは一八〇以上ある最大血圧が、透析中に六〇まで下がり、死にそうになって、医師や看護師が大騒ぎになったのですが、私は、意識が飛びそうになる中で、「あっ、お題目を」と思って、心の中でお題目を唱えました。すると、五分から十分ほど唱題したと思いますが、突然、スーッと身体が楽になって回復したのです。私は、「お題目のおかげだ」と心から思えました。このような功徳の体験が幾度も起こる一方、勤行ができなかった日にかぎって、学校での勤務中に手や足の爪が割れるという罰の体験もあり、私はこの仏法が本物であると確信できるようになり、欠かさず勤行をするようになりました。

それでも折伏については、どうしてもしたくなかったのですが、妻の父が私を強引に折伏に連れ出すようになったのです。折伏は嫌でしたが、妻の父が怖い人だったもので、逆らうことができず、長崎や佐賀、大分、宮崎、熊本など、九州管内の学会員への折伏に連れ回されました。それも、今から思えば感謝の気持ちしかありません。

当時の創価学会は極めて悪らつな上、異常なほどに勢いもあって、私たちが学会員宅を訪問して折伏しようものなら、すぐに大勢の男子部が出てきて、私たちを取り囲み、怒鳴って威嚇(いかく)したり、車のタイヤをパンクさせたり、尾行したり、警察沙汰になることも度々でした。しかし、妻の父からは、〝折伏ゆえに反対されたり難に遭うことによって、過去に作った罪障が消滅して幸せになっていけるんだ〟と、強く教えられますので、学会員の嫌がらせに屈することなどできません。学会員より、妻の父の方が怖かったのです。(笑い)

さらに私は、妻の父の勧めにより、家族や、友人、同僚・教え子たちを折伏するようになりました。まず、両親の折伏ですが、結婚後、両親とは別々に暮らしていたのですが、平成十五年四月、私が転勤になったことを機に、両親との同居を始めました。そして、邪宗を捨てなくては父も母も幸せになれないと知っていた私は、妻と共に、これまで以上に心を砕いて両親を折伏していきました。しかし、父は「菩提寺の浄土真宗は絶対に辞めない」と言い張り、母も「宗教の話はしないで」と泣きながら制止してくる状況でした。その後も折伏を続けていったところ、母だけは御授戒を受け、私たち夫婦と一緒に勤行をするまでになりましたが、父は依然として「しない!」の一点張りでした。

そんなある日、帰宅すると、動けないはずの父が、母と共に家からいなくなっていました。父は、妹や親戚に頼んで連れ出してもらい、母の実家に逃げてしまったのでした。母は、まだ信心が弱かったため、父の言いなりになるしかなかったようです。妻と共に母の実家に駆けつけると、そこには祖母をはじめ、叔父、叔母、従兄弟たち十五人に加え、妹夫婦までが揃って、私たちを待ち構えていましたそして私たち夫婦に向かって、「宗教の話をするな!」「嫁の立場で宗教など持ち込むな! 金森家がおかしくなったじゃないか!」と、皆で一方的に怒鳴ってきました。私は心臓が震えるのを感じながら、

「僕は息子として、お父さんを誰より大切に思っています。日蓮正宗でしか幸せになれないから、信心するように勧めているんです」

と必死に訴えましたが、全く取り合ってもらえません。最後に父とも話しましたが、父は「もう、絶対に家には帰らない」と言い、親戚たちからも「絶対に戻さない」と通告され、もはや両親との同居は諦(あきら)めるしかありませんでした。

しかし、この出来事を経て、私の中で両親を救いたいという想いが募(つの)っていきました。それまでは、「早く高校に戻り、野球部に関わりたい」というのが、勤行の際の、私の最大の願いだったのですが、このまま両親と別居していたら、両親を救う機会はなくなってしまうと思い、ある日、意を決して御本尊様に、「もう一生、野球はしません。その時間をひたすら仏道修行に励みます。ですから、どうか、もう一度、両親との同居を叶えてください」と真剣に御祈念しました。すると、なんとその翌日、母から電話が掛かってきて、父が「帰りたい。迎えに来てほしい」と言っている、というではありませんか。御本尊様に誓願を立てた、その翌日だっただけに、本当に驚いてしまいました。そして、 それは両親が家を出ていってから、ちょうど百日目のことでした。それからは、再び母と勤行に励み、妙観講の総会にも参加してもらうことができました。

ところが、その喜びも束の間、またも父は母を連れて家出し、今度は妹夫婦の家に行ってしまったのです。同時に弁護士から「御両親に会わせることはできません」という通知が届きました。それから三年後の平成二十年十一月、とうとう正法に帰依(きえ)できないまま、父は息を引き取りました。通夜の後、叔父から呼ばれた私は、「父親が死んだのはお前のせいだ」と言われて、叔父に顔を平手打ちされました。五発、十発、十五発と、思い切り叩かれ、怒鳴られましたが、私はひたすら堪(た)えました。邪宗で葬儀を出された父の遺体は、すでに首筋まで黒ずんで、背中のあちこちからウミが出ていました。体重は三十キログラム余りしかないのに、棺は異様に重く、大人四人では抱えられずに、六人でもやっと、という状態でした。

まさに父は、大聖人様が、

「人は臨終の時、地獄に墮つる者は黒色となる上、其の身重き事千引(ちびき)の石(いわ)の如し」

(御書一二九〇頁)

と仰せられているとおりの堕地獄の相だったのです。私は、せめて後生(ごしょう)の苦しみを和(やわ)らげてあげたいと思い、日蓮正宗で父の戒名をつけていただき、今に至るまで毎月、塔婆供養をしています。

なお、母の実家でさんざん私たち夫婦を罵(ののし)った叔父のことですが、自動車学校で教官をしていた長男がバイクを運転中に、一時停止を無視して突っ込んできた車と正面衝突し、即死してしまいました。まだ三十代の若さで、小さな子供たちを残しての死でした。また、私を平手打ちした叔父は、その後、奥さんから離婚され、アパートからも追い出されてしまったそうです。さらに、父が生前に関わっていた中山身語正宗の教会へ、妻や妻の父と一緒に折伏に行ったのですが、その数年後、その教会では、修行中に信者を死亡させて僧侶が逮捕され、テレビでも大きく報道されました。まさに、正法に背くところに仏罰が厳然と現われることや、邪宗教の恐ろしさを思い知らされる出来事でした。

また私は、身内だけではなく、高校時代・大学時代の野球部仲間や同級生、職場の同僚の先生たち、また、教え子たちを折伏していきました。これも妻の父からの強烈な勧めによるものでした。まず野球部の卒業生から折伏していくと、多くの卒業生が、私が言うのならと、次々に入信しました。しかし、保護者の間では大問題となり、保護者たちから呼び出されたり、直接我が家にやって来て罵(ののし)られるといったことが続き、前任校でも問題になり、最後には教育委員会にまで訴えられました。

]さすがに、この頃は本当に辛いと感じましたが、妻の父は容赦(ようしゃ)ありません。(笑い)さらなる折伏をするよう督励(とくれい)され、野球部以外の卒業生にも連絡を取っていきました。すでに入信していた教え子たちと共に、折伏のために電話した卒業生の数は、八百名近くにのぼります。すると、たちまち噂が広まって、卒業生の家族からは電話の取り次ぎを拒否され、携帯電話も着信拒否され、かつて信頼し合っていた野球部のコーチからも文句を言われ、会うことを拒まれました。さすがにこの時も辛いと思いましたが、教え子の林義幸君や金田将徳君、結城貴浩君たちが信心を頑張っていましたので、彼らのためにも私が倒れるわけにはいかない、と自分に言い聞かせ、踏ん張ることができました。

そして、そのようにして折伏してきた功徳は絶大でした。すでにお話したように、私は、三十二歳の時から人工透析をはじめ、余命は長くて十年と宣告されていたのですが、十年どころか、気が付けば、あれから二十三年が経過しているのです。同じ病院で治療を受けていた患者さんたちは、症状が悪化して、合併症を発症したり、すでに亡くなったりしていますが、私だけは、合併症にかかることなく、血液検査の結果も良好で、血圧も発症当時は二一〇もあったのが、今では、一二〇台という正常値に落ち着いて、薬もいらなくなりました。そして、このように元気で五十五歳を過ごすことができています。(大拍手)

また、私たち夫婦は、結婚して一年目に、医師から「子どもは諦めてください。顕微授精しても意味はありません」と言われていたのですが、その後、男女二人の子供を授かり、二人とも元気に育って、現在、十四歳と十一歳を迎えています。(大拍手)とうに失われているはずの自分の命が、今日(きょう)、こうして続いており、授からないはずの子供も二人まで授かることができたのです。

また、職場の環境も大変良く、私のクラス・学年だけは毎年良い形になっていますし、折伏に反発していた先生方までもが、今では仕事上の良き協力者になっています。そして、入信したかつての教え子たちも、家族や友人の折伏に立ち上がっていて、今は親となって子供に信心を受け継がせています。今にして思えば、これも、私を強引に折伏へ駆り立ててくれた妻の父のおかげであり、さらには支えてくれた妻や、正しい信心を教えてくださった講中のおかげ、そして何よりも御本尊様の功徳によって本当に有り難い人生へと導いていただくことができたものと、確信する次第であります。(大拍手)

この御恩に報いるためにも、助けていただいたこの命を使って、これからも精いっぱい折伏に精進してまいります。ありがとうございました。(大拍手)