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体験発表<令和4年 第44回総会より>法難に屈せず折伏を貫き、六百人をまとめる工場長に

石岡 佑介さん

私は平成十年、大学二年生の時に、アルバイト先で知り合った小林孝二班長から折伏されて日蓮正宗に入信しました。
当時の私は大の宗教嫌いでしたが、邪宗・謗法が不幸の根本原因であることや、正法に背き続けていけば最後には地獄に堕ちてしまうということを聞いて、とても恐ろしくなり、「地獄には堕ちたくない」という思いだけで入信し、先輩方に手を引かれながら少しずつ信仰を進めるようになりました。
そして、大学の卒業を控えた平成十二年、就職活動を開始したのですが、当時は、いわゆる就職氷河期の真っただ中で企業の求人は極端に少なく、有名大学を出ていても、まともに就職できない人が溢れているような時代でした。

そうした中で、私は、従業員四十名程度の町工場の旋盤工でしたが、なんとか正社員として就職することができました。
その会社は、同期の大卒と比べれば給料は安く、休みも少なく、きつい上に将来性もあまりないというところで、私の中では「どうして大学卒業してこの仕事、この待遇か」と嘆く気持ちがありました。
また、それとは別に、社会人となった私は、自分でもイヤになるくらい仕事ができないことに気付きました。たとえば、「それ取って」とか「これ置いて」というような、ごくごく簡単な指示ですら、言われたことをそのとおりに実行できないのです。

上司からは、「お前を雇うくらいなら、その辺を歩いているやつを連れてきた方がマシだ!」と言われ、いつもいつも怒られていました。
来る日も来る日も同じ作業の繰り返しであったことや、何より仕事ができないことが辛くて、「仕事ができる人には、どういう世界が見えているのだろう」と毎日毎日思っていました。
そして、その会社は三年で退職し、ある大手輸送機器メーカーの派遣社員になったのですが、そこでの私も、イヤになるくらい仕事ができず、給料も前にも増して少ないものでした。

そうした中で、講中の先輩から、「罪障を消すまでは、悩みは解決しません。折伏して悪口を言われることで、過去の謗法の罪障を消滅していけば、必ず状況が変わりますよ」と教えていただいたことで、私は、「今の自分の姿は、折伏をしていなかったからだ」と気付き、それまで臆していた職場の人達に対する折伏を、今度こそ実践していこう、と決意しました。
初めは怖くて、ドキドキしながら職場の同僚や上司に声を掛け、会う約束を取っていきました。そして、先輩に手伝っていただきながら折伏したのですが、簡単な仕事すらできない私が折伏するのですから、上司はカンカンに怒って帰っていき、同僚からはバカにされたりからかわれたりしました。折伏されて怒った同僚から首を絞められ、周りが慌てて止めに入ってくれたこともあります。

そうした中、「折伏して悪口を言われることで罪障消滅されて、良くなっていく」と教えられてきたとおり、本当に折伏の功徳が現われてきました。だんだんと普通に仕事がこなせるようになってきて、待遇も良くなってきたのです。
ところが、その後も折伏を続けたところ、派遣会社から「宗教活動を続けるなら、解雇する」と言われて、登録から三年目にして解雇されてしまいました。
しかし、折伏故の不当解雇ですから、悪い結果になるはずがなく、その二ヵ月後の平成十九年七月には、自動車関連の会社に、今度は正社員として、しかも、文系大学出身であるにもかかわらず、夢であったエンジニアとして採用され、待遇も前よりずっと良くなりました。

私は、御本尊様の功徳を実感しつつ、この会社でも同僚や上司を折伏していきました。すると、私が信仰を勧めているという噂が瞬く間に社内に広まり、会社から信仰に対する凄まじい圧力がかけられ始めました。課長・次長・工場長と、それぞれから呼び出されて、折伏のことを咎められ、社員からは白い目で見られて、からかいや陰口・悪口は当たり前、折伏している最中、顔に思いっきり水をかけられたり、とにかく奇人・変人扱いされました。
そして、入社一年目にして、「石岡は、宗教でめんどうくさいヤツだから」という理由で、アメリカの支社へ飛ばされてしまいました。妻子を静岡県磐田市の実家に残しての、単身赴任です。

アメリカでの赴任中も、当時の講中の方針に従って、毎日二時間の唱題を行ない、また、アメリカ人であろうと日本人であろうと、会社関係の人をはじめ現地で知り合った人を、片っ端から折伏していきました。また、半年に一度の一時帰国は、必ず、御会式や総会に合わせるようにしてきました。
当時は、今のように御講や会合のオンライン配信はなかったので、日本での会合の内容や指導を聞くのも一苦労でしたが、ひたすら日本への帰還を願いつつ、仏道修行に励みました。

そうしたところ、御本尊様の御加護のおかげだと思うのですが、アメリカ人の上司や同僚が常に私の味方になって良くしてくれ、なんと、五年の滞在予定が三年も短縮されて、二年で帰国が叶ったのです。平成二十二年七月のことでした。また、帰国後も、信仰故に解雇する、と何度も人事部に呼び出されましたが、その都度先輩に指導をいただき、乗り越えることができました。
そうした体験を繰り返しているうちに、私は、「自分が仕事ができているのは、御本尊様の功徳のおかげなんだ」ということをはっきり自覚できるようになり、さらに折伏を進めていきました。

その後、家庭の事情もあって、磐田市の実家から車で三十分の所にある、アメリカ資本の液晶ガラスの世界的企業に転職しました。
この時の転職も、御本尊様の御加護としか考えられない展開で、給料は前職の倍近いものとなり、さらには、短期間のうちに、百名近い部下を持つ課長に昇進したのです。
その後、平成二十七年、この会社が日本でのビジネスを縮小するのに伴い、私も退職して、日本企業に転職しました。
平社員からの入社でしたし、給与もかなり下がったのですが、ここでも仕事ぶりをとても評価していただき、課長から部長へと昇格して、気付いてみれば百八十人の部下を持ち、給与も、家族を養うには十分な額をいただけるようになりました。

さて、この頃より、講中の方針の一つとして、ネパール・インドへの西域弘教が始まりました。その中で私は、「自分も西域弘教の闘いをお支えしたい。そのためにも、もっと御供養をさせていただきたい」と願うようになったのですが、時を同じくして、不思議な巡り合わせでヘッドハンティングを受け、令和元年、外資系の製造会社である今の会社へ転職しました。年齢四十二歳で、「年収一千万円以上」という企業は地元では珍しく、本当に功徳による転職でした。
今の会社では、当初は〝工場長候補の製造部長〟ということで入社しましたが、昨年十月から、いよいよ工場長に昇進しました。部下の数も六百人となり、事務所内に自分の部屋をいただけるような待遇です。

当然、責任も重くなり、何より大変なのが、部下への指示でした。部下に六人の部長がいるのですが、この道二十年とか三十年のベテランで、年齢も私より上の方々です。この部長たちが、たかだか二年務めた私に判断を求めてくるのです。
私は、何かあるたびに、大聖人様が
「日蓮法華経の文の如くならば通塞の案内者なり」(御書七二三㌻)
と仰せられていることを思い、御本尊様にすがるような思いで、心の中で必死にお題目を唱えます。すると、不思議と、どこにも着地点が見いだせない問題に対しての解決策が見えたり、助けてくれる人が現われたりと、なんとか乗り越えることができるのです。

そんなことが毎日のように続いてくると、窮地に直面した時も、自然に「絶対、大丈夫」という不思議な安心感が湧いてきて、困難に対処できるようになりました。
また、私の会社は、毎月毎月の達成すべき生産高が決められています。たやすい目標ではありませんし、実力主義の外資系ということもあり、目標未達が二、三ヵ月も続けば、解雇ということもありえます。機械の故障や市場の状況で生産数が伸びないこともありますが、そんな言い訳は一切通用しません。
私は、意地でも今の会社に留まり、御供養で西域弘教の闘いをお支えするのが自分の使命、と思っていますので、「これは、折伏して与同罪を免れ、仏天の御加護をいただくしかない」と思い、毎月毎月、部下や同僚、周囲の縁ある人、その辺で知り合った人や、学会員・顕正会員などの異流義の人など、片っ端から折伏していきました。

そうすると、その日から、不思議と一日の目標を超えて生産できたり、また、五十日分の在庫が必要なのに、生産の不調によりわずか二日分の在庫になってしまった時にも、急に客先からの注文が減って欠品を起こさずに済んだりと、事態を切り抜けられるのです。そのことは、スタッフからも「工場長、何か持ってますね!」と言われるくらい、不思議がられています。

そして、このような、折伏の功徳を見たからでしょうか。私の家族も折伏に立ち上がりました。
現在高校三年の長男は、友人から「信仰の話は一秒でもイヤだ」と言われても、ひるまず『捨邪帰正のすすめ』を手紙を添えて渡したり、高校一年の次男は、大の苦手だったかつての担任の先生を折伏したり、対象者がいなくなれば兄弟で過去の年賀状を引っ張り出し、十年以上も前の幼稚園の園長先生の連絡先を見つけて、折伏しました。ちなみに、その園長先生は入信し、現在、喜んで信仰に励まれています。(大拍手)

妻もまた、ママ友を連れ出して折伏できるようになりました。こうした中で、信仰に反対していた妻の父も、持病が悪化して危篤状態になった際、最後の最後で帰伏することができました。
思えば、私はこの信仰を続けて二十四年目となりますが、当初は、「あれ取って、これ取って」といった単純な指示すらも実行できないほど、仕事ができなかった私が、今では六百人の部下をまとめ、大学時代の同期よりもはるかに高い給与をいただくまでになれました。

また、「世界で活躍するエンジニアになる」という学生時代からの夢も叶い、家も住宅ローン無しで手に入れることができ、四人の子供にも恵まれ、信心を根本とした一家和楽の家庭を築くことができました。
御金言に、
「法華経を信ずる人は冬のごとし、冬は必ず春となる」(御書八三二㌻)
と仰せられているとおり、折伏を貫いてくる中で、途中は、様々な難に遭って冬のような状態になりましたが、おかげで自分の人生は大きく開け、その功徳は家族にまで巡って、本当に春の喜びを感じられる境遇となりました。

この御恩を生涯忘れず、さらに御奉公できる人材に成長すべく、精進してまいります。
ありがとうございました。(大拍手)