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第67世日顯上人猊下御言葉 平成6年まで

“要”と“行”について(平成六年五月二十九日 於・本門大講堂)

妙観講の皆様、本日は妙観講が支部総登山を行なわれ、多くの方が参詣をせられまして、御戒壇様に御報恩申し上げることは、まことに私も嬉しく思っております。
この支部総登山については、日蓮正宗におけるあらゆる法華講支部が、それぞれ一年に一回、総力を挙げて登山をするように、という趣旨を申し伝えてありますが、やはりまだ、その辺のところが、いろいろな事情で充分でない姿も見受けるのであります。
しかしながら本日は、ただ今も小川指導教師から”妙観講においては、ほとんど多くの方々が、この日を目指して参詣せられておる”ということを伺いまして、さすがに妙観講は、非常に立派な、強い信心をしておる、ということを感じた次第でございます。
また、引き続いて、第十六回総会を行なわれるということであり、まことにおめでとう
ございます。

本日は、一つは、要点ということについて申し上げ、もう一つは、行ということについてお話を申し上げたいと思うのであります。
何事も、肝心要という言葉があるように、要点を外していかに努力をしても、その成果が非常にはっきりしない、ぼやけた形でしか得ることができない、ということが、世の中には非常に多いのであります。

今の世の中の人々は、本当に自分の生きる道、生きる意義を忘れておる人が非常に多いのですが、それは、やはり生きる上における要を忘れてしまっておるということに当たる、と思うのでございます。
この世間の姿もよく見ると、じつに、あらゆる悲喜こもごもの姿がありますが、また、ひとつの事柄においても皆、意見が違っておるということもあります。それは、いったい、この世の中の在り方がどうあるべきか、ということが極められておらず、十人寄れば十色、百人寄れば百色の、いろいろな考えがあるからであります。

それはやはり、この要である因縁果報の正しい姿によって、この世の中を照らせば、自ずとそこに正しい帰趨――帰るべき処がはっきりわかってくると思うのでありますが、それが、仏法の正しい鏡に懸けるべきことを忘れておるが故に、世間の善悪・その他さまざまな人生観・世界観の上から、判断をしようとしても、それがじつにいいかげんな形になっておるわけであります。
そこで、どうしても、この仏法の鏡をもって正すべきである――つまり、この仏法と世法の関係は、やはり能開・所開というところにあたると、私は思います。

大聖人様のお言葉をもって拝すれば、
「仏法は体のごとし、世間はかげのごとし。体曲がれば影なゝめなり」(御書一四六九頁)
という、皆様ご承知の御指南があります。体と影ということは、体があってその影が存し、体が曲がれば影が曲がる、したがって世法の間違った姿は、やはり仏法が間違った姿となっているのである。
仏法の中において、能開・所開、つまり開くべき本体・本筋と、開かれるべき方便のさまざまな教えとがあり、さらに、そのさまざまな教えの一番末端のところに、世法の姿がある、ともいえるのであります。

したがって、仏法の正しい意義をもって世法を照らし、また自分自身の生きる道をはっきりしていくことが大切であります。
一切の教えの中に、仏教がその本筋、要の教えである。
また、この仏教の中において、爾前経等が種々あるけれども、法華経に帰することを皆様方は聞かれておると思います。
さらに、この法華経の中において、一部八巻二十八品の種々の御説法は、釈尊が二千余年の当初、インドにおいて、その時の縁のあった衆生に対して説かれたものでありますが、釈尊はこの法華経の神力品において、「要を以って之を言わば、如来一切所有の法、如来一切自在の神力、如来一切秘要の蔵、如来一切甚深の事」という四句の要法を示し、「皆此の経に於いて宣示顕説す」と説かれたのであります。

この語句について、天台大師は法華玄義十巻を述べておるのですが、内容的には、仏教の一切を網羅した、じつに難しい意義があります。
しかし、大聖人様はそこを、最も要をもって、末法下種の仏様として我々に御指南をくださっている、それが「三大秘法抄」の御文であります。すなわち、
「問う、所説の要言の法とは何物ぞや」(御書一五九三頁)
という質問を構えられて、
「釈尊初成道より、四味三教乃至法華経の広開三顕一の席を立ちて、略開近顕遠を説かせ給ひし涌出品まで秘せさせ給ひし処の、実相証得の当初修行し給ふ処の寿量品の本尊と戒壇と題目の五字なり」(御書一五九三頁)
と、はっきりお示しでございます。

したがって、一切の教法は法華経に帰し、その法華経の肝心要の法は四句の要法に顕わされておりますが、それは、すなわち、また寿量品の久遠の法体である、ということが御書において示されているのであります。
この寿量品の中において、本因妙という法義があります。これは、釈尊が、本果妙としての三十二相・金色の姿を顕わして、久遠以来、説法教化せられておる、その、最も根本のところにおいて、それらの一切の善因善果の功徳を成就した一番の元、それが本因妙であり、肝心要の法であります。
なおまた、いまの「三大秘法抄」の御文に「実相証得の当初修行し給ふ処」とありましたが、ただ単に、お話を聞いて悟るという形は、まだ釈尊の仏法における方便の姿であり、本当の釈尊の久遠の法は、修行によって顕われ、その功徳を成就することができるものと、私は、この本因妙の要の大法の意義を拝しておる次第であります。

いまの御文は、じつを申しますと、詳しく述べれば大変長くなり、三十分、四十分、場合によっては一時間以上にもなります。が、簡単に申し上げるならば、この御本尊様を信じ、仏力と法力を信じて、我々が信力と行力をもって、南無妙法蓮華経と常に唱えていくところに、必ず、その要の大法の大功徳を得ることができる、という御指南であります。
今日においては、この肝心要の大法を、人法一箇の御本尊様と拝さなければなりません。

しかるに、池田大作なる奇怪至極な妖怪は(笑い)、御本尊様を単なる妙法の法だというのです。
仏様の肝要の法は、仏力と法力という、人と法とが一箇になっているところにあるわけですから、人即法、法即人で、御本尊様の御当体はいわゆる仏力と法力とが一体となっているのであります。したがって、仏力から離れた法力はなく、法力から離れた仏力も存在しないわけであります。
これを、法だけであると考えて、また、そのように本尊を拝してしまうから、今度は、その法の帰結はどこにあるか、それが、いつのまにか自分自身であるかのような錯覚を起こしている。だから、会員の多くの人達が、「池田先生を念じて南無妙法蓮華経と唱えよう」などということを平気で指導し、指導され、これをまた平気で許しておる。とんでもない大謗法であります。
こういうインチキな姿が、池田創価学会の根本のところに存在するということを、大いに考えなければなりません。

一方、この大草講頭は、じつに立派な方である、と私は思っております。住職の指導を受けて、皆さんを本当に正しい方向へと導いてきたからこそ、今日、この大勢の妙観講が、本当に正しい姿で信心修行をされていると、私は思うのであります。
しかし、もし万一、その大草講頭の指導において、「御本尊様を拝する時、大草講頭を心に念じて拝め」などという指導があったとすれば、それは大草講頭は間違いなく池田と同じ大謗法者であるということになりますが(笑い)、そんな指導ありませんね(「ハイ!」)、絶対にあるはずがない、私は大草氏を信じているのであります。

ともあれ、末法万年を救う仏様は、下種の本仏、法即人の日蓮大聖人様であらせられます。この要点を外して、我々の即身成仏の道はないのです。
この本尊の根本の拝し方が狂えば、したがって戒壇も題目も狂うわけであります。
戒壇については、池田大作が会長に就任して間もなくの頃でしたか、台東体育館で発言したことの中で
「戒壇建立なんていうのは従の従、形式の形式であります」
こういう、大聖人様の「三大秘法抄」の最後の戒壇の御文に対して、非常に軽んずることを言っております。

結局これも、仏力を忘れておる、仏様のお心を忘れておる、御仏智を忘れておるから、結局、戒壇建立はどうでもいいんだ、大事なのは民衆だ、などというのです。それも、民衆の一番中心者は自分だから、結局、一番の大事は池田に帰する、という考えもあったでしょうし、また、根本を民衆に置くというところに、すでに機根に約してしまっておる誤りがあります。

大聖人様は、
「機に随って法を説くと申すは大なる僻見なり」(御書八四六頁)
と「撰時抄」にも仰せになっています。念仏・禅等の邪宗教が法華経に背いているのは、皆、機根中心の考えに捉われてしまっているからです。
それに対し、まず、法の根本を正しく拝しつつ、そこに一切の人が救われていく道が開かれていく、というのが、本当の法華経の教えであります。それを学会では間違えてしまっているのです。
ともあれ、要の大法とは、ただいま申し上げた三大秘法であり、ここに一切の要点があります。

また、大聖人様は、自行化他にわたっての南無妙法蓮華経とお示しでありますから、この三大秘法を自行化他にわたって行じていく、すなわち、御自分でしっかり信心修行すると同時に、大いに折伏をして邪義邪宗に迷っておる人を救っていく、ということが肝要であります。

この点においても、妙観講は、じつに立派な修行をされております。今日ここに、満場立錐の余地なく妙観講員がお集まりになっているという姿も、これは、一人が一人をしっかり折伏していくという、尊い実践の功徳であると、私は思うのであります。
この折伏という行は、一切の人を救うのでありますから、もちろん誰れ彼れの区別なく、いまだ正法正義を知らず信ずることのできない人々に向かって、縁あるところから教導折伏すべきであります。

しかし、その中でも創価学会こそが、今日、仏法の上から社会の上から、あらゆる謗法の悪を撒き散らしておる中心でありますから、この創価学会の悪を破すということを忘れて、あるいは避けて、創価学会以外の人々を導いていけばよいという考え方は、やはり壷外れであり、要点を外すことになる、と思うのであります。
私は、これからは今までよりも、なお強く、この、学会に対する折伏を、妙観講の方々だけに止どまらず、日蓮正宗の全僧俗を挙げて行なっていくよう、はっきりと申していきたいと思っているのであります。

この点、むしろ妙観講は、先陣きって、創価学会の邪義を破折されております。名称は変わりましたが、「慧妙」という新聞も、たいへん立派であります。
どうか、大草講頭以下、皆様方が、大聖人様の御教訓である異体同心の心をどこまでも持って、お互いが励ましあって、世界に正法を広布していく原動力としての、妙観講の充実と前進に向かって、いよいよ御精進をしていただきたい、と思うのであります。
以上、申し上げまして、総登山の挨拶といたします。本日はまことに御苦労さまでございました。

吉き教導者・指導者のもとに興隆を(平成五年六月六日 於・本門大講堂)

本日は妙観講の総登山といたしまして、皆様方が元気なお顔でこの総本山にお登山をされまして、私も心から嬉しく思う次第であります。
妙観講が、大草講頭の指導のもとに、また指導教師・小川只道房の教導のもとに、着々とその基礎を固めつつ発展されておる姿を、いろいろな面から、私もひしひしと感じており、これも心から喜んでおる次第でございます。
この際に、一言、御礼を申し上げておきますが、最近、あちらこちらの親教等のために地方へまいりますが、そういう時に、妙観講の青年部の方々が、あの街角街角に立たれて、身を挺して、交通整理その他をもって私の通過をお護りしてくださる姿に、私はいつも目頭が熱くなるのであります。
本当に、大草講頭のもとに皆様方が、大聖人様の大法を、どこまでも命懸けで正しく護り、信行し、進まんとしておる姿を、いつも、いろいろな面から感じておる次第でございます。
この皆様方の在り方こそ、大聖人様が、また御開山日興上人様以下御歴代様がみそなわせられ、心から笑みをふくませられておることと、私も信じるのであります。
皆様方は、小川只道房といい、また大草講頭といい、本当に吉い教導者・指導者を得ておられる、これは本当に幸せなことと思います。
その上に、末法万年に向かっての広宣流布の実体として、大聖人様の尊い三大秘法の教えがましますのであり、その上から、いよいよ確信をもって御精進をされることを、お祈りする次第であります。

最近、私が丑寅勤行等において感じておりますところの、大聖人様の御教えのごく一端を、少々申し上げたいと思います。
それは、私どもが唱えるお題目の御当体は、けっして個人個々のものではないのであります。このお題目は、大聖人様が御本仏として、末法の一切衆生即身成仏のために顕わしあそばされたところの、本門の本尊に具わり、その本門の本尊を信じて唱えるところの行の題目であります。
この行とは、我々のみの行ではなく、御本仏日蓮大聖人様の行であります。その行の御当体が、また根本の本門の本尊の南無妙法蓮華経の五字七字でありますから、したがって南無妙法蓮華経を唱えるということは、ただ私達が唱える題目ではなく、信心さえあるならば、そのまま御本尊様の御当体たる南無妙法蓮華経であります。
そこのところを、つい、自分自身だけのものである、というように考えてしまうならば、これはやはり、信が無いために
「高く聖境に推して己が智分に非ずと思う」
という、摩訶止観の破折の文にやや通ずる意味も出てまいります。すなわち、これは念仏の考え方であります。

あくまで、「末法の機根は下根下機であり、法華経のような尊い教えは機に合わないのである」「理深解微である」とかあるいは「千中無一」とかいうような文をもって、法華経の尊い教えを自ら否定し、自らの命が妙法であることを忘れ去って、南無阿弥陀仏のような爾前権教の方便の教えに捉われてしまうのであります。
また、その反面において、南無妙法蓮華経はそのまま我々の命である、というように思い込んだときには、今度は逆に、
「知無きはすなわち、増上慢をおこして、己れ仏に等しきと謂う」
というところの弊害が顕われてくる意味があります。
今日、あの慢心の、謗法の団体と化した創価学会――その一番元の諸悪の根源たる池田大作の、誤った信仰の中には、念仏の考え方も弊害として存すると同時に、また禅宗における、増上慢な「己れ仏に等しと謂う」という考え方、法華経の本義本体が木仏の御当体であることを忘れて、自分自身の命にある、というような考え方に堕ちてしまっておるのであります。

大聖人様も
「心中に染まらざる信心薄き者は(略)臨終の時阿鼻獄の相を現ずべし」(御書七五一頁)
と御指南されているのは、まさに法華経を、仏の仰せのごとく、深く如実に信じ奉るところに、我々の真の信心の姿がある、ということであります。
しかるに、それを、智慧のない者は、直ちに自分が仏であると思い、信がない者は、仏の命はとうてい自分には及ばないと考える。
我々の境智冥合の題目は、御本仏様の御当体を、そのまま信じて行じ奉るところに、一切の根本である南無妙法蓮華経――あらゆる教えを〇〇和合して一服の良薬とし、本仏の大慈悲によって示された南無妙法蓮華経――の御当体を、そのまま我々はロに唱え、行ずるのであります。

そこに、仏様の御命・南無妙法蓮華経が、仏界が、そのまま我々迷いの九界と、直ちに即するのであります。いわゆる仏界即九界であります。また、御本尊を信じ奉るところに、我々の迷いの命がそのまま仏の命に即し、九界即仏界という功徳を成じ、いわゆる九界即仏界・仏界即九界、一念三千の境智冥合の意義が、我々の命の中に、悠然として胚胎し、また顕われてくるのであります。
ここのところを、信がなければ、「自分はいくらお題目を唱えても駄目だ」というように思い、智慧がなければ、御本尊を拝しても「直ちに自分の命である」から「俺は仏に近い」とか「俺は仏である」というような考え方を持つ、この両方とも大きな誤りであります。

妙法の当体は自力即他力・他力即自力でありまして、いわゆる法力・仏力をいただくための信力・行力、この四力が合致して冥応の功徳が成就するのでありますから、そのどれを欠いても誤りであります。片方に偏することが、そのまま邪教の考え方に通ずる意味がありまするし、本当に信解がなければ、その誤った考え方がいろいろな面から指導等の形で伝えられて、それを受ける人々の大きな謗法の元になっていくのであります。

創価学会では今日、あらゆる人々が、常に嘘を言うことが平気になっております。目的のためには、どんな嘘をついてもいいんだという、あの考えこそ、大聖人様の正直の妙法
に反し、大聖人の教えを土泥に踏みにじるところの、大きな謗法の観念であります。
このような姿のやはり一番元は、妙法の当体を素直に正しく信解していかなければならない、そこを忘れておるからであります。

それは、やはり下種三宝のところに、日蓮正宗末法万年の広宣流布の、一番の根本が存すると思います。それを、「大聖人直結である」というようなことを言って、「我々は大聖人直結なんだから、あとは何もいらない」このような考え方が、まさに大謗法の姿であります。やはり、その元は、すべて、法を正しく持っていく、いわゆる正しく三大秘法を持ちまいらせてきたところの、日蓮正宗七百年の歴史に存するのであります。

今日、謗法の徒が非常に充満しておりますが、それに対して日蓮正宗の法華講の方々が、陸続として各寺院に支部を結成し、僧俗、真に一致和合しての、広布に向かっての前進を始めんとする組織形態が、まさに本年から定まったといえるのであります。
その中で、とくに以前から、先陣をきって広宣流布のため、とくにあの『妙観』、そして改展の『慧妙』等において、創価学会の誤りをあらゆる面から完膚なく破折しておる、この妙観講の方々の智慧と信念は、じつに私は立派であると思います。『慧妙』が来ることを今日、私も毎月二回、楽しみに待っておるのであります。

どうぞひとつ、この破邪顕正の姿をもって進んでおるところの皆様方の講中の、いよいよの興隆発展が、皆様方の信心修行によって成就されていくことを、私は心から御祈りいたしまして、また、大草講頭以下、皆様方の、いよいよの信行倍増と御健康を御祈りし、一言挨拶といたします。本日はまことに御苦労様でございました。

(講中の歌二曲を御披露の後)

素晴らしい歌を初めて聴かせてもらいました。本当にありがとう。

宗門一大事の時に現われた講中 (平成四年七月十二日於・大客殿)

本日は妙観講の皆さん、大草講頭以下多数の方が、講中総登山に御参詣になりまして、まことに御苦労様に存じます。ようこそお登山なさいました。
本年度から、全国の各寺院の僧侶と信徒が一つになって、一年に一回、総本山にお登山するという行事を開始した次第でございます。それはやはり、今日の状況の中で、それぞれの法華講が、僧俗和合のもとに正法を護持し、自行化他に邁進する体制が大切であります。しかしながら、それぞれの寺院においては、新しく法華講を結成したところもあり、まだ未結成のところもある状態でございます。そのようなことから、やはり全体の団結を強め、一年に一度、総本山に各支部を中心として登山するところに、真の信心の倍増、御報恩の達成を心懸けることが、もっとも大切と思ったからでございます。

妙観講の方々は、まことに大草講頭以下、強盛な信心をもって、いつも大法を護り、総本山を外護されておりまして、常々から大勢の方が登山をしておられます。そのような点からは、普段の在り方において、登山の徹底ということはもう達成されておると思うのですけれども、特別に、また本日は、妙観講のすべての方がここに結集をして、御戒壇様に御報恩を申し上げ、罪障消滅を御祈念するということが行なわれて、私もたいへん嬉しく存ずる次第でございます。

『阿仏房尼御前御返事』に
「大智慧の者ならでは日蓮が弘通の法門分別しがたし。然る間、まづまづさしをく事あ
るなり。立正安国論の如し」(御書九〇六頁)
という非常に深いお言葉がございます。
この「大智慧の者ならでは」というところに、大聖人様の法門が、末法の一切衆生を救済しきる根本の大法であるだけに、当時の天台宗等によるところの法華経の解釈や考え方ではとうてい及びもっかない、本門の本義が存することが、拝されるわけであります。

とくに大聖人様は、『開目抄』『観心本尊抄』その他の御書の中に、「本門に二つの心あり」と仰せられ、また、その全体の法門の綱格より五重相対、五重三段という主意をお示しでありますが、その本当の大聖人の御正意の弘通の法体が、いかなる本義であるかということを、大聖人御在世において、多くの弟子達の中でも知る人が少なかったのであります。
それであるが故に、「大智慧の者ならでは、日蓮が弘通の法門分別しがたし」と仰せでございます。

皆様もすでに聞かれておるとおり、六老僧の中においても二祖日興上人ただ御一人のみ、大聖人様の真の化導、三大秘法の本義を深く拝し奉り、しかるが故に、また大聖人様から唯授一人の相伝をもって大法を付嘱せられた次第でございます。

このように、やはり仏法の本義は、生知の妙悟と申しまして、いろいろな、深い、一言に尽くせない六道三界の衆生の大因縁の中で、ひとり真に生まれつきの不思議な命をもって、大法をしっかり受け、これを正しく末代に弘通されるところの方が出現あそばすのでございます。それによりて日興上人様が、大聖人様の本当の大法の本義を受持し、末代万年にわたって弘通あそばされた次第でございます。

それと同じように、末法の今日において、やはり、正法をいかに正しく信心しまいらせ護持し奉るか、ということにおいて、ここに、やはり生知の妙悟の深い意義がある、と私は思うのであります。

今日、池田創価学会の最近の姿においては、じつに悪鬼入其身の、正法正義を壊乱しておる姿が存するのであります。その、もっとも早期において、一部の方々が、やはり、池田創価学会――池田大作の指導する創価学会――の在り方はおかしい、ということを深く感じて、自ら、いかなる困難をも顧みず、どこまでも、大聖人様・日興上人様の大法を正しく受持していきたいという信念をもって、自らの信心を鍛えに鍛えつつ、法を護らんとした方が、非常に数はわずかでありますが、あるのであります。

皆さん方もすでに御承知のことと思いますが、この妙観講の講頭・大草氏こそ、まさにその尊い一人である、と私は信じておるものであります。
大草氏の話も、ある時に直接聞いたことがありましたが、もう、入信の当時すでに、創価学会の池田大作を中心とする考え方が、どうも正しい仏意仏見に照らして我意我見に当たるのではないか、ということを、まず疑われたというんですね。

大聖人様も――大聖人様とその他多くの末代の凡夫と比例するのは、これはいけないかもしれませんが――大聖人様も、御出現あそばされて、日本全国の中に八宗十宗、蘭菊のごとくに周囲に自らの義を主張しておるけれども、仏の真のお教えというものは一つでなければならない、また、それによって多くの人々が邪法邪義という形の中で悪道に堕ちておる、ということの上からも、大きな疑問をそこに生じられて、あの十数年の御遊学となったわけでございます。

それと伺じように、大草氏も、創価学会の在り方が本当におかしいということを根本のところで感じられたというところに、やはり、大法を本当に正しく護っていく使命のある中心の人である、ということを私は感じております。
そして、今日、その大草氏のもとに、また指導教師たる小川只道房の指導のもとに、妙観講の方々が、本当に立派に信心修行に邁進されておることを、私は心から喜び、かつ尊敬いたすものであります。

講中には、ひとつの条件があります。
それは、やはり折伏を行ずる講中であってほしいのであります。また次には、大聖人様の難信難解の仏法を常に研鑚していく、大聖人の御正意を正しく拝さんとする行学の二道、学解に対する深い心懸けが大切であると思います。さらに、身をもって大法を護り、総本山を護るところの実践の姿がある。この三つが揃って、真に立派な講中だといえると思うのでありますが、妙観講は、そのすべてに、ほぼ立派な姿をもって御奉公されておることを、私はここに感じておるものであります。

とくに先般来、さまざまな問題の中で、この指導のもとに多くの青年男女の方々が、種々の場合に、私を護ってくださり、また総本山を身をもって外護している姿を見るときに、この妙観講が、本当に宗門の一大事の時にこそ、真に法を護らんとするために現われた講中である、ということを感じておるものであります。

皆様方、どうぞ縁あって、この講中に籍を置かれた信心において、本当にこの留難の多い時代に真の御奉公ができ、修行ができるのであります。このことを一人ひとりの方が深く確信をもって、今後ともに正法広布のために、大法外護のために御精進をしていただくよう、心からお祈りをする次第でございます。
皆様方のいよいよの御健康と御精進を深くお祈りいたしまして、一言御挨拶といたします。本当に御苦労様でございました。