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第67世日顯上人猊下御言葉 昭和56年 重大な御奉公なすべき因縁

重大な御奉公なすべき因縁

(昭和五十六年八月十四日 妙観講第四回総会に寄せて)

この妙観講は昨年に結成されたわけですが、やはり異体同心ということを大事にして、どこまでも大聖人様を根本とした、正しい信心修行を自ら行なっていく、そして、また他の人に御法を正しい姿で伝えていく――このことが、講中を結成し発展させていくうえに大切であると思います。

この大聖人の御法は、皆さんも御承知のとおり、絶対に正しい、すべてを救う大法である。「御儀口伝」に
「秘とはきびしきなり三千羅列なり」(御書一七二六頁)
という御文があります。非常に難しい御文ですが、宇宙法界のあらゆるところまで、すべて仏智・仏見によって照らされているのであって、我々凡夫が「わからないだろう」と思っていても、仏様の御境涯からは全部がわかっていらっしゃる。そこにおいては厳然たるものがあって、いささかも誤魔化しや詐りは通じないのであります。

ですから、それだけにまた正しく信心する者にとっては、正しい結果というものが厳然と現われるのでありまして、それは、あなた方もいろいろと体験していることでしょう。本当にこの御法を正しく受持し、素直に、真面目に信心していくところには、必ず御本尊様が、それだけの功徳を御示しくださるわけです。

その正しい信心を一人ひとりがして、功徳をいただいていく――そこに、本当に清らかな、団結をもった集団が次第に発展していく、それが理想の講中を築いていく道であります。
また、これとは逆に、一人ひとりの信心の中に我意・我見があるならば、やはり、それなりの悪い結果が現われてくる。

過去において、宗門にはいろいろな講中がありました。その中には、十人か十五人ほどの講員をかかえて、それで天下を取ったような気持ちでそっくり返り、時には威張って僧侶をいじめるような人格の講頭や幹部がいた。そして、講員を自分の所有物であるかのような考えをもっていた。しかし、それは間違いである。

そういう自分本位な、利用信心のような行き方は誤りであり、その人には、それなりの悪い結果が出てくるのであります。
こういう点を戒めとして、どこまでも正しい信心を貫いてもらいたい。
この妙観講は、若々しい姿で、これから伸びていく素質が非常にある講中であると私も感じておりますので、しっかりやってください。

また、いろいろな因縁によって、講頭・副講頭となり、幹部となる。その立場においては、人よりも進んだ信心をもって、僧侶とはまた違った在家の役職の立場で、皆のための指導性をもっていく。これも当然の姿であり、けっこうなことであります。
それは、あくまでも法を説く、広宣流布のためである、という精神を根本としていかねばならない。そこを失ったならば、講中の動きが止まってしまう。

たとえば五百世帯、六百世帯まで折伏し、御奉公していくことは立派なことです。
しかし、さらに五年後、八年後、十年後と、永遠に前進していくことが大事である。広宣流布に向かって、互いの信心を磨き、信行学を増進していく――そこに立派な団結をもった講中がさらに拡張・充足していくのであって、それがもっとも大切なことです。

もし三百世帯なら三百世帯、五百世帯なら五百世帯というふうに、たとえ大きくなっても、それで止まってしまうのであれば、結局はそれだけの境界でしかなかった、五百なら五百、三百なら三百、それだけの講中でしかなかった、信心そのものが止まってしまった、という以外にない。
ですから、常に自らの信心を磨き永遠に前進していく、その精神が一人残らずの講員に伝わっていくところまでいけば、本当に立派な講中であるといえるのであります。

現在の法華講には古い人が多く、新しい人が少ない。ところが大草講頭のところには、非常に若い人が多く集まってきており、まことに独特な、めずらしい講中である。これは、将来、宗門に重大な、重要な意味での御奉公をなすべき因縁があるのではないかと思うのであります。

どうか、あくまでも大聖人様に御奉公しよう、本当に御奉公していこう、という一念をもって、僧俗が和合して精進していってもらいたい。そこに必ず正法流布の願いが叶うのであり、また、それ以外に講中をやっていく根本はないのです。
しっかりと進んでいってほしいと思います。