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第67世日顯上人猊下御言葉 平成17年まで

妙観講の進むべき道 (平成十七年八月二十八日)

妙観講は、何といっても行学の中心である折伏行ということに対して、大聖人様そして御先師の御指南を深く体して実践しよう、という講中であり、私はいつも、その顕著な姿を本当に喜び、かつまた、期待しておる次第であります。
皆さん方の折伏成果も、年々増加されて、今日、一万世帯を超えるような人数になっておるということは、本当に喜ばしいかぎりと思います。

しかし、何といっても、このように前進するところには、必然的に障害や魔が起こってくるものでありますが、それをさらに乗り越えて、いよいよ妙観講の目的とするところの宗門外護、ひいては一閻浮提広宣流布のために、今後とも精進されんことを、私は心から念ずる次第であります。
これから、いよいよ皆さんが異体同心の信心をもって、妙観講の中における団結を計っていくところに、必ず、また、未来がさらに大きく開かれるということを、私は、確信しております。
どうぞ、今後もご精進くださいますよう、心からお祈りする次第です。

なお、指導教師から聞くところによりますと、入講してきた講員の中に、「妙観講は謗法厳誡ということをやかましく言ったり、折伏しなければ与同罪になると言うから、窮屈で嫌だ。同じ日蓮正宗なら、もっと楽に信心していける所の方がいい」といって、勝手に他へ移籍してしまった講員がある、ということです。

また、これと関連しますが、他の寺院講中と妙観講の在り方に違いがあるということで、妙観講が浮き上がっているというか、果ては「妙観講は今に創価学会のようになる」などと、本気で考えている人もいるのです。もちろん、妙観講の在り方は創価学会などというものとは根本的に違いますから、私はその人に「そういうことは絶対にない」と言っておきました。
こういった、他の寺院講中と妙観講の在り方の違いについて、私の考えを少々申し上げておきます。

私は登座以来、『祖道の恢復』『異体同心の確立』『広布への前進』という三つの基本方針を打ち出してきました。そして、私が宗門全体を見て、統率してくる中で、この三つを本当に顕著に実践しているのが妙観講である、と私は思っています。
今後、宗門において、どのような変化があろうと、この基本方針が変わることはありませんし、妙観講の在り方が云々されることは絶対にありません。
こうした方向を、私は身を挺して保っていきますので、皆様も、これまでどおり貫いていってもらえばよい、と思うのであります。

その上で、最初の、窮屈になって迷いを生ずる講員が出てくる、という点ですが、勝手に出ていってしまうのは、その人の信心ですから仕方ないとして、「やはり、我々は大聖人様の御教えを基準として、謗法厳誡で、折伏第一に進んでいく講中が一番よいのだ」ということを、講員の皆がよく理解し、自覚していくように、指導し、育てていってください。

それから、妙観講の在り方が他の寺院講中と比べて浮き上がっている、という事ですが、そういう見方をする人もあると思いますが、それは、日蓮正宗としての中心の在り方から見たらどうか、といえば、その本当の正しい在り方から妙観講が外れている、などということは絶対にない。むしろ、妙観講は、本当にきちんと正しい在り方を実践しております。

ただ、全国の寺院の法華講には、どうしても、成り立ちからくる違いというものがあります。
創価学会の問題が起きる前、法華講の在る寺院は、全寺院の四〇パーセント程しかなく、それから急速な勢いで、全ての寺院に法華講を作ってきました。
そうした中には、何年経っても折伏ができない講中もあれば、信徒が減っているから、ということで一日中お寺の門が閉まっているようなところもある。いろいろな差別があるわけです。
また、昔から続いている寺院講中の中には、自分のお寺をしっかり護っている、ということで満足し、その殻の中に入ってしまって、本当に広宣流布のために進む、という心になれないところもあります。

このように、全国の寺院講中にもいろいろな差別があるわけですが、現在、これらを、宗門として一致団結して、正法正義の信行と広宣流布に邁進する、という方向へ、宗務院が中心となって全国を廻って指導しているわけであります。
そうした中で妙観講は、講中の在り方や折伏の姿において、最も前進している講中であり、新しい意味での、法華講の在るべき姿がそこに顕われております。

これを外側から見て、他と違っているといって、いろいろな心から批判する人もいるかもしれませんが、逆に、「これこそ立派な講中である、よくやっている」との、客観的な評価をしている人達もいる筈です。
そういうわけですから、あなた方、妙観講の在り方が浮いてしまっているのではなく、むしろ、一番基本の正しい在り方を徹底して行なっているのが妙観講なのだ、という確信をもって邁進していってもらいたい、と思うのであります。

「僧俗前進」の意義について(平成十七年一月一日 元朝勤行の砌)

宗旨建立七百五十三年新春、おめでとうございます。
皆様には、この元旦勤行に大勢の方が御参詣されまして、まことに尊いことと思うのであります。
「過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ」(御書五七一頁)
という有名な経文もありますが、皆様方の昨年度における信心修行の功徳があって、この元旦に当たって総本山に参詣し、本年一年の信行倍増を祈られたことと思うのであります。また、その功徳が、本年さらに未来において、様々な仏法の信心修行の上からの大きな徳となって顕われてくることを確信するものでありますが、このことはまことに尊いことと思うのであります。

さて、本年は「僧俗前進の年」ということになっております。この「僧俗前進」ということについては、僧と俗が共に大きな目的に向かって一致して前進していく、ということが大切だと思います。

御承知のとおり、大聖人様の御出現以降、七百八十三年が経過しましたが、下種仏法は日興上人・日目上人等、御歴代の御先師の法灯相続により、そしてこの間、僧侶が法を正しく護ることにおいて、今日まで存続してきておるのであります。これは『四恩抄』において、釈尊仏法が正像二千年の歴史を経て末法の今日まで伝わってきておる、という所以もお示しあそばされておるところであり、僧侶があって初めて、仏法が永久に続くということが存するのであります。

しかしながら、僧侶だけがあっても、けっして仏法が正しく伝わるということはないのです。すなわち、僧侶と一体になって正法を外護していくところに、在家の皆様方の信心の姿があり、また、それによって各々が仏道成就の本懐を遂げていくことができるのであります。したがって、それは僧俗が共に心を一つにしてこそ、初めて、真の信心修行が成り立っていくのであります。

あの創価学会は、力が付いたからといって、宗門を操作して自分らの都合のいいようにしたいと、いろいろに考え、あるときには恫喝をしたり、また、いろいろな意味での意地悪をするというような在り方が、過去においてはじつに多くありました。その挙げ句が平成二年、大石寺開創七百年の年の「一一・一六」の池田大作の大謗法の言動ともなったわけであり、その翌日には普賢岳が噴火したというような不思議な謗法の現証があったのであります。

そのようなことからも、やはり、信徒は僧侶と共に、あくまで仏法のために尽くしていくのだ、という気持ちを根本に持つことが大切であります。自分らが偉いと考え、僧侶を見下して、それを思うがままに操っていく、というような考え方自体が大謗法なのであり、その姿が今日、創価学会のあの魔の所行として残っておるのであります。

さて、この「前進」ということですが、あくまでこれは広宣流布への前進であります。ただ単に前へ進めと言っても、何が目標かが解らなければ、行く先が解りません。これは当然、広宣流布へ向かっての前進ということであり、そのためには、いわゆる自行化他、自らも仏法を修行するとともに、他もまた教化していく。その教化のなかでも特に、邪義を持っている創価学会のごとき者に対しては、はっきりとした折伏を行ずることこそ大切であります。その意味において、この「前進」とは、すなわち自行とともに折伏をしっかり行じていくというところに、本当の前進の姿があるのであります。

そこで、邪義のはなはだしい創価学会に対して、まことに効果的に、いろいろな工夫をこらしつつ創価学会の邪義を根本的に打ち破り、前進しておる講中としては、全国の中でも妙観講が最も勝れておる、と私は思うのであります。ですから、そのような在り方を各講中が見ながら、とにかく邪義を折伏しつつ前進していくということに、お互いに大きく一致していくところが、「僧俗前進」の真の姿と私は思うのであります。

そういう点からも、本年は昨年に引き続いて「破邪顕正」という意味をより強くしていく内容が、真の僧俗の和合し一致しての前進であるということを、皆様方はしっかり肚に入れていただきたい、と思うのであります。(後略)

大講頭任命について(平成十六年一月十一日 唱題行の砌)

おはようございます。
ただ今は、参詣の信徒の方々と共に一時間の唱題行を行なった次第であります。
本日は、参詣者が多いようですが、第二日曜日ということで、理境坊の所属であります妙観講の方々が参詣されたことと思うのであります。また、各坊に所属している近隣の方もいることと思います。

この妙観講は、非常に折伏・教化が進んで、大きく発展しております。それは、妙観講の講頭である大草一男氏の指導によって、折伏を進めてきたことによるものであります。
顧みれば、平成三年に創価学会問題が起きて、それ以来、創価学会の月例登山がなくなりました。それに替わって、平成四年からは、全国の法華講が、支部の総力を挙げて支部総登山を行なうこととなりました。
その支部総登山につきましては、本当は年々、発展していかなければならないのですが、まだまだ振るわない支部も多くあります。

しかしながら、妙観講は、年々、増え続けておりまして、平成十四年には総本山として特別な行事があったので総登山は行なわれなかったのでありますが、平成十三年の支部総登山には三千数百名であったのが、平成十五年には四千数百名に増加しています。じつに、一気に千名近くも増加しているのであります。これは、まことに全国の法華講が模範とすべき姿であります。
その意味において、今般、妙観講々頭の大草一男氏を、総本山総代の渡辺定元氏と共に、法華講大講頭に任命いたしました。

これまで、法華講支部は全国にあったわけですが、法華講本部は名前はあったものの、機能していませんでした。総講頭として柳沢喜惣治氏、大講頭として石毛寅松氏という方(法道院の信徒ですが)はいたのですが。そこで、宗規には「大講頭は若干名」ということでありますので、今般、新たに、今日ここに参詣している大草氏と渡辺定元氏を、他の方々と共に任命し、大講頭を六名といたしました。このように宗規に基づき、支部に対して本部を確立させた次第であります。

なおまた、この妙観講が発展したのは、宗門七百年の歴史に対して、たかだか五十年しか経っていない創価学会が「久遠元初の法だ」などと言っており、また、ありとあらゆる角度から、総本山を誹謗し攻撃しておる。この創価学会の邪義に対して、妙観講は、平成三年から悉く破折してきた。これによって、妙観講が大きく発展してきたものと思うのであります。
創価学会の邪義を破折していく――そこに、本年の「破邪顕正の年」の意義があるのであります。他の法華講の方々も見習っていってもらいたいと思います。

総本山の坊の檀徒であっても、いまだ、謗法の考えが抜けておらず、創価学会の影響を受けている者が大勢いる。法華講員であるにも拘わらず、聖教新聞を読んでいる者がいる、ということを最近聞きましたが、まことに間違った考え方であります。
本日お集まりの各坊の住職は、今年はそのようなことをしっかり改めさせていく、ということを考えてもらいたい。
檀家のそのような在り方を、いつまでも容認したまま、改めさせることができない、というようなことがあってはならない。
南条時光殿の領地であった上野で、今は富士宮北部のこの地に、まだ謗法の者が大勢いる。そのようなことがなくなるようにしていってもらいたいのです。それをしないということは、破邪顕正の義が解っていない、ということになります。

本日は十一日ということで、月は違いますが、文永元年十一月十一日の小松原の法難の日にあたります。大聖人様が、東条景信ら数百人の兵に囲まれ、弟子の鏡忍房が殺され、駆けつけた信徒の工藤左近尉が討ち死にしています。

しかし大聖人様は、弓箭も持たず、数珠だけであったにも拘わらず、額に三寸程の傷を負われ、腕を打ち折られただけで、不思議なことにその御命を奪うことまではできなかったのであります。数百人の兵に囲まれて、大聖人御一人を狙われたにも拘わらず、その御命を奪うことができなかったのは、諸天の加護であり、まことに不思議なことであります。

そうした信心をしっかり持って行なっていくことが、今年の「破邪顕正の年」の在り方であると思うのであります。
一月いっぱいまで唱題行を行なっていくことになっていますので、その中でしっかり祈念して、信徒の方だけでなく僧侶も一緒になり、僧俗和合して、身口意の三業をもって破邪顕正を進めていっていただきたいと思います。