朝倉 安世さん
本日は、去る一月十一日、八十八才で亡くなった、私の父の臨終に至るまでの体験を発表させていただきます。
私の父は、昭和五十一年に創価学会を通じて日蓮正宗に入信しました。当時乳ガンを発症していた私の母を助けられるのなら、という思いからだったようですが、その願いは叶わず、母は四十二才という若さで亡くなり、それからは、まだ五才だった私と二才上の姉を男手一つで育ててくれました。父の信仰状態ですが、御本尊様は自宅に御安置していたものの、創価学会に対する不信感と、仕事と子育てに追われる多忙な日々のため、学会の活動や行事には一切参加せず、ただ母への追善のために、お墓のある正宗寺院に、お彼岸やお盆、命日に参詣しては御塔婆供養を続けていました。私も父と一緒に御授戒を受けただけで、信心はしないまま育ちました。
その後、母のお墓がある寺院の住職が日蓮正宗に反逆し、異流義集団・正信会になってしまったのですが、そのようなことが全くわからなかった父は、その寺に通い続け、そればかりか、日蓮宗身延の修験者にお祓いを頼んだり、知人に勧められて怪しげな祈祷師のような所に通ったり、地元の邪宗の祭りに関わったりと、知らずとはいえ、大きな謗法を数多く犯してしまいました。さらに、私の母方の祖母が亡くなると、祖母の家にあった日蓮宗の仏壇を引き取り、あろうことか、御本尊様と並べる形で、日蓮宗の本尊を祀ってしまったのです。このような状態で、まともな人生を送れるはずはありません。
父は、電気会社で働いていたのですが、仕事中に背骨を痛め、両腕がしびれと痛みでまともに使えなくなり、身体を起こしていることもままならなくなって、とうとう仕事を辞めざるを得なくなりました。おまけに、身体を治そうとして通った鍼灸師の所で、背中一面に火傷を負い、数年間苦しむこととなったのです。その後は、一つの仕事が続かず転々と職を変え、経済的にも精神的にも不安定になっていき、家では私達娘二人に当たり散らし、怒鳴りつけたり、時には暴力をふるうようになっていきました。そんな父に対し、姉は、反発心を強く持ったようで、「殺してやろうか」とまで言っていましたが、二十代半ばに結婚を機に家を出て、ほぼ絶縁状態になってしまいました。
私は、そのような家庭で、悲しみと絶望感と恐怖でいっぱいでした。「母が生きていたら…」と思い、いっそのこと私も死んでしまおうか、と考えたこともありましたが、死んだらどうなるのかがわからないので、かろうじて自殺を思い止どまっていたのです。
それでも、看護師として働きたいという夢が叶って、それまでに抱いていた疑問――どうしてこの人がこの病気にかかるのか、私より若いこの人がこの病気で亡くなるのはなぜか――などに、何らかの答えを見いだせるのではないか、との期待をもって看護師の仕事を始めました。しかし、答えが見つかるどころか、医学では救えない命があるという現実に直面し、医学の限界を思い知らされました。そして、次第に仕事にやりがいが持てなくなっていったのですが、そうした私の人生には次々と災厄が襲いかかり、職場の院内感染で結核となり、治ったと思ったら今度は卵巣嚢腫で手術、と、「なぜ、私が?」と思うような出来事が続き、とうとう、うつのような状態に陥って、仕事は長期休暇となってしまったのです。
このように、御本尊様を御安置していながら、異流義に所属し、邪宗にも関わっていた我が家は、家族の心もバラバラで、それぞれに苦しみを抱えながら何とか生きている、という状態でした。ところが、そのような状況にあった平成十七年の二月、突然、全く面識のない妙観講の松田卓士班長が、学会員を捜すローラー折伏で電話をかけてこられ、その縁で再折伏を受けた父と私は、創価学会及び正信会との縁を切って日蓮正宗に帰伏し、妙観講の講員として正しい信仰の道に戻ることができたのです。
もともとあまり信仰心のない父でしたが、入講後は、先輩から言われるままに私と一緒に毎日勤行を行なうようになり、登山にも毎月参詣させていただき、講中の会合にも八王子の自宅から本部まで足を運ぶようになりました。しかし、その信仰はまだまだ弱く、私が仏道修行にも積極的に取り組むようになると、「そんなに一生懸命に信心しなくてもいい」とか、「信心しているのに非常識だ」などと、講中や先輩方の批判を口にしたり、時には私の修行を妨げる言動をなすこともあったのです。そして、かつて母方の祖母の葬儀が邪宗・日蓮宗で執行された際に、父が喪主を務めてしまったことなども考えると、私は、「このままでは、せっかく日蓮正宗の信仰に付いたものの、父は罪障消滅ができないのではないか」と心配になりました。
その父が、昨年春頃、体調に異変を生じ、かかりつけの病院で、「肺にガンがある」と告げられました。父は、私にはそれを隠していましたが、数ヶ月が経って、父がたびたび激しい腹痛に襲われるようになったことから、肺ガンが肝臓にも転移していることがわかったのです。医師からは、「すでに手術は不可能です。今年いっぱいまではもたないでしょう。腫瘍が破裂すれば急変する可能性もあります」との宣告を受けました。
吉尾部長からは、「できるだけ一緒に唱題する時間を増やしてください。また、お父さんは帰伏した当初、正信会で聞かされていた猊下への誹謗や日蓮正宗に対する疑惑・不信を口にしていました。お父さん自身が、異流義の中でそのような大謗法に染まっていたことを心から懺悔するよう、お話してあげてください。懺悔することで罪を許していただけるのですから」と言われ、私自身も異流義に身を置いていたことを本気になって懺悔し、父と共に罪障を消していただくのだと決意を新たにしました。
いろいろな感情も出てきましたが、仏法で教える親の恩、つまり〝どのような親であっても、大きな恩がある〟ということや、また、後生の大事・成仏の大事を何度も教えていただいてきましたので、とにかく父の人生で最も大事な最期・臨終を、最も良い形で迎えられるようにするしかない、と思い、私は自宅療養での看取りを決意しました。それは、何より、自宅であれば、御本尊様を拝して共に読経唱題に励むことができ、法要や会合にも配信で参加できて、功徳を積ませていただける、と思ったからです。
職場には介護休暇を願い出て、父と共に過ごす毎日が始まりました。介護は思った以上に大変で、心身共に疲れ果て、愚痴や嘆き、悲しみの心に支配されそうにもなりました。そんな私を心配して先輩がたびたび連絡をくださり、井原幹事には、「泣いている暇があったら唱題しましょう」と励ましていただいたこともあります。そのような中で、父も毎日、すすんで勤行唱題に励むようになり、配信で送られてくる法要や会合にも、喜んで参加していきました。かつては、会合の内容が自分なりの考え方に合わないと、すぐ反発して批判をしたりしていましたが、そのようなことも全くなくなり、素直な姿勢で聞くようになりました。
また、登山についても、病床に伏して行ける状態でなくなってからは、毎月、御開扉の付け願いをお願いし、特別御供養にも、自らの志で精いっぱい参加しておりました。そして私も、少しでも功徳を積んで父に回したいと、友人や知人をメールで折伏したり、近所の学会員宅を折伏に行きました。
すると十一月下旬のことです。立つことはもちろん、起き上がることすら一人ではできなくなっていた父が、一人でトイレに歩けるようになったのです。さらに、その後の数日間で、ひどかった浮腫が見違えるように取れてしまったのです。おかげで父は、痛みが激減し、それまで眠れずに苦しんでいたのが、ぐっすり眠れるようになり、食事も取れるようになりました。私は本当に、御本尊様の功徳が有り難くてたまりませんでした。
このように、父と共に精いっぱいの志と修行を重ねる中、無理だと言われていた年を越すことができました。その後の父は、意識が朦朧としたり、眠っていることも多くなっていきました。が、それでも、私と主人が勤行唱題を始めると、それに合わせて、一生懸命にお題目を唱えていました。そして一月十一日の夕刻、呼吸が弱くなっていった父は、大きく一つ息を吐くと、眠るように息を引き取りました。私は父の耳元で「大聖人様がお迎えに来てくださる」ことを伝え、お題目を唱えました。
葬儀は、火葬場の都合で二十日となったため、父は一週間以上も自宅で過ごすことになりました。講頭から伺っていた、〝息を引き取ってからが闘いの第二幕だ〟との言葉が思い起こされ、「何としても父を成仏させるのだ」と気が引き締まりました。部長を始め支区の皆さんが、葬儀までの間、ずっと交代で唱題してくださっていることを伺い、大変心強く、とにかく父の成仏を願って唱題を続けていきました。
日蓮大聖人は、成仏を遂げた人の臨終の相について、
「色黒き者なれども、臨終に色変じて白色となる。又軽き事鵞毛の如し、軟らかなる事兜羅綿の如し」(御書一二九〇㌻)
と仰せられています。つまり、医学的には、亡くなった人の遺体は、血液の腐敗と凝固により、死後数時間が経つとドス黒く変色し始め、死後硬直が起こって固くなり、腐敗臭を発散させる、ということになっていますが、正しい仏法を信仰して成仏を遂げた人は、死後に安楽な幸福境界を得ることができ、その証拠に、遺体は色白のきれいな肌のままで、死後硬直も起こらず、腐敗臭も出ない、と説かれているのです。
その御金言のごとく、父の身体は皮膚や腕・指の関節も柔らかいままで、まったく死後硬直を起こすことなく、また、死化粧もしていないのに、肌の色はむしろ生前よりも綺麗になっていき、まるで眠っているかような穏やかな表情は、一週間以上経っても全く変わることがありませんでした。ドライアイスも全く使いませんでしたが、死臭も全くありませんでした。
しかも、亡くなって日が経つごとに、唇に赤みが差していったのです。これには本当に驚きました。このようなことは、医学的には全く考えられないことです。納棺の際には、男性二人が片腕で軽く抱えるようにして持ち上げられるほど、とても軽く、棺に入れた時に首が横に傾いてしまうほど、柔らかい状態でした。
通夜・告別式は八王子市の常修寺事務所様に執り行なっていただき、その際には、講中の皆さんが斎場まで来て、夜通し唱題してくださり、火葬直前には、唇がさらに紅を差したように、輝くような赤色になっていました。看護師をしている関係で、亡くなった方の姿を数多く見てきましたが、信心していない方の場合に、このような例は皆無です。本当に正しい日蓮正宗の信仰によってしか、成仏はできないのだ、とあらためて確信した次第です。
父と私は、妙観講で正しい信心を教えていただいたおかげで、それぞれに功徳を積むことができ、それまでの親子関係を修復することもできて、私も父の成仏を願い守ることができたのだ、と思います。父自身も、臨終ギリギリではありましたが、反省・懺悔できたのではないか、そして、講中の皆さんの唱題の功徳に支えられて、父は霊山へと旅立つことができたのだ、と思います。また、入講以来、御住職様には、機会あるごとに罪障消滅や当病平癒の御祈念をしていただきました。罪障深き父と私が信心を続けてこられたのは、正しい師匠に祈っていただけたおかげである、と感謝の念に堪えません。平成十七年のあの時、妙観講の同志が創価学会員に対する折伏を行なっていなかったら、松田班長からの電話を受けることもなかったでしょう。そして、あの日、父が妙観講への移籍を決断していなかったら、父の成仏もあり得ず、今の私もありません。
父への感謝を忘れず、追善供養のためにも、そして何より大恩ある御本尊様への御報恩のために、今後は、妙観講が目指す五つの目標達成に、必ずや御奉公できる人材へと成長していくことをお誓いいたします。
ありがとうございました。(大拍手)